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【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #75

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相対性理論にも興味を持った本多静六

最終章 若者にエールを送り続けて (8)
一二〇歳寿命説

そのうち静六は自分の長寿を確信し始めた。
確かに彼の親戚には長寿の人が多い。祖父友右衛門は数えで八六まで生きたし、曾祖母やつは八九、母やそは八五、伯母の金子いの(父親の姉)は九七まで生きた。父親は短命だったことなど都合の悪いことは横において、自分の家系は長命だと信じ込んだ。
大隈重信が寿命一二五歳説を唱えたのは有名だ。早稲田大学大隈講堂の高さは、それにちなんで一二五尺ある。それは生物の成熟までの年数の五倍が平均寿命である動物全般の例にならった考え方で、二五歳で成熟する人間の場合、その五倍の一二五歳が平均寿命であるはずだというわけだ。
これに対して静六は、理屈は大隈のものを踏襲した上で、日本人はもう少し早い二四年で成熟するとし、一二〇歳寿命説を打ち立てたのだ。
二人とも前提としている成熟年齢が遅すぎるように思うが、それはひとまずおく。
さらに寿命の根拠を仏典に求めた。釈迦の前世の因縁物語である闍陀迦(ジャータカ)経の中で釈迦が、「一二〇歳を上寿、一〇〇歳を中寿、八〇歳を下寿」と語り、それ以下はすべて夭死(わかじに)と説いているのを見つけたのだ。だから彼に言わせれば、本来、「人生七十古来稀(まれ)なり」などではないはずで、そう詠ったのは〝杜甫(とほ)の弱音〟だとまで言っている。
ともかく、自分は長生きできると暗示をかけたわけだ。

静六は『私の生活流儀』の中で、福沢諭吉が「若い時には老人に接し、年老いては若い人に接せよ」と語っているのを紹介し、これは最も適切な青年訓であり老人訓であると述べている。
実際、老人と言っていい年代になってからの彼は若い人と接するよう努めていた。
人生相談もそうだ。時には家にまで押しかけてきた帰還兵の若者の悩みを聞いてやりながら、彼らの身になって必死に考え、助言した。それは彼自身が若返ることに他ならない。老いてからの彼にとって、若者との会話は最高の健康法の一つだったのである。
静六がまだ渋谷の家に住んで帝国森林会に通っていた頃、大西保(中央大学学員会会長)という若者を書生にしていた。
熊本の芦北(あしきた)農林学校(現在の県立芦北高等学校)の出身で、帝国森林会に新卒で採用された職員だった。貧しい大西の家庭事情に配慮して住み込みとし、一緒に帝国森林会に通うようにしてやったのだ。
昼食には一緒にそばを食べた。静六は六銭の盛りそばだが、大西は食べ盛りなので九銭の大盛りを頼んでやる。
それを一緒にすすりながら、毎日のように、
「幸福とは、昨日よりも今日、今日よりも明日が良くなることだ」
などと訓話を聞かせた。
時折、帝国森林会の前の部屋に入っている埼玉県人会から中央大学総長の林頼三郎(はやしらいさぶろう)が遊びにやって来る。林は検事総長、大審院院長、司法大臣を歴任した、埼玉が生んだ賢人の一人である。大西には中央大学の夜学に通わせていたから林は憧れの存在でもある。大西の前で交わされる彼らの会話は大変勉強になった。
静六のそばにいて感化を受けた部分もあるかもしれないが、大西は静六に気に入られただけあって、すこぶる優秀な努力家であった。
寝る間も惜しんで勉強して司法試験に合格し、弁護士になったのだ。まさに師匠直伝の「人生即努力、努力即幸福」を実践したわけだ。
大西はその後も師のことを慕い続けた。
隠居した後もしばしば伊東の歓光荘に訪ねて行き、一緒に畑を耕した。八〇を超えた静六のほうが三〇代の大西より耕すのが速くて驚かされたという。
静六の死後、大西は歓光荘を本多家から買い取って別荘とし、週末、サツマイモなどを育てるのを楽しみにしていた。きっとこの場所は大西にとって忘れ得ぬ思い出の地だったのだろう。

静六は若い人に会うだけでなく、新しい知識を入れることで自分の頭脳をリフレッシュさせていた。そのことに関し、山路木曾男(やまじきそお)が興味深い話を残している(「縁―サイカチの歌―」『本多静六通信』第一二号、「忘れ得ぬ人々 本多静六博士」『山林』一一二〇号)。
山路は若い頃、有名人に会うのを趣味のようにしていた。農林省農業試験場に勤務していたこともあって静六の孫の植村誠次(当時玉川大学農学部教授)とは旧知の仲で、頼んで歓光荘まで静六に会いに行くことにした。昭和二五年(一九五〇)一一月二九日のことである。山路は二七歳、植村は三五歳、静六は八四歳であった。
歓光荘は日当たりの良い場所にあったが、季節柄もう寒くなっていたのだろう。静六は山路に当時珍しい電気座布団を勧めてくれたという。
驚くのはここからだ、
「実は近く、国際平和大学をニューギニアに建設しようと考えておる。その折にはアインシュタイン博士に学長になってもらい、わしは事務総長になるつもりだ」
と話し、アインシュタインからの手紙や大学の設計図面を見せてくれた。
本当にそんな計画があったかどうかは、この山路の回顧談のみに出てくる話なので判然としないが、この歳になってなお新たな挑戦を考えていたのは事実だろう。
また静六は、
「隣に有名女優が住んでおっての、彼女と世間話をするうち身の上相談にも乗るようになった」
と楽しそうに話してくれたという。
八〇歳を超えた男性から艶っぽい話が出てくることに山路は驚き、
(これは例のホルモン漬のせいか)
などと思ったそうだ。
静六が『私の生活流儀』の中で、長寿と夫婦円満のための夫婦生活の回数について〈八―九十代は月二―三回以下が適度のように思われる〉と書いていることを知ったら、もっと驚いたに違いない。
山路が研究者としてのアドバイスを請うと、
「まず英語会話を修得すること。現に私はラジオ英語をやっています」
と言って、テキストを見せてくれた。
それは最近、NHK朝の連続テレビ小説「カムカムエブリバディ」で一躍有名になった平川唯一(ただいち)の「カムカム英語」だった。
朝はたいてい五時半に起きるのだが、六時のラジオ英語を聞き終えてから朝食をとるようにしていた。ドイツ語は得意だが英語はなかなかじっくり習う機会がなかったからだ。ひょっとしたら国際平和大学をアインシュタインと運営する日に備えてのことだったのかもしれない。
帰り際、出たばかりの『幸福・成功 処世の秘訣』にサインして持たせてくれ、最後に、
「造林の研究では、造林の失敗の歴史を正確に残すことだ。あと量子学(今で言う量子論)を勉強しなさい」
と助言した。
彼が山路に〝失敗の歴史を調べるべきだ〟と伝えたのは実に適切なアドバイスだ。若者は功名心に燃えているから成功事例に目が行きがちである。だが失敗の中にこそ成功につながる深い教訓があるのは、名著『失敗の本質』を挙げるまでもないだろう。
そしてもう一つの量子学についてだが、実は二人ともこの時は何のことやらさっぱりわからず、
「植村さん、先ほど先生は量子学を勉強せよと言われたが、何ですか量子学って?」
「何だろう、じいさん変なことを言ったね。鉄砲打ちの猟師でもあるまいし…」
という珍問答をしながら家路についたという。

静六は生涯、時代の最先端の知識を学び続けた。
ドイツ留学中にマルクスの『資本論』を読み、壮年になってからはアインシュタインの相対性理論に興奮し、いつも周囲の人の一歩前を歩きながら知のフロンティアに触れ続けた。
そしてその終着点が量子学だったのである。エルヴィン・シュレディンガーは静六より二一歳下。ポール・ディラックは三六歳下。まさに次世代が構築した新しい学問だ。そして現在の我々にとってさえ〝知のフロンティア〟であり続けている。
知れば知るほど面白い。あのアインシュタインでさえ、量子論と自分の理論との矛盾に悩んでいると聞いて余計興味を持った。
そのうち周囲の人にも寄ると触ると、
「量子学は面白いよ」
と吹聴し始めたのだ。
シュレディンガーの猫やパラレルワールドの世界にわくわくしながら目を輝かせていたと考えると恐るべき好奇心の老人である。
次々に発見される科学の業績に、彼は人類への希望を見い出していたのかもしれない。

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