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【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #54

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永遠の森54

【全国から明治神宮へ集まる献木】

第四章 緑の力で国を支える (24)
〝神宮の社〟造営

大山古墳を理想型にするという話が漏れた段階で、大隈首相から強く反対されたことはすでに述べた。
杉木立に囲まれた荘厳な神宮を建設するよう迫る大隈に、
「失敗したら閣下の責任ですよ!」
と脅し文句を投げつけて黙らせたのは、二人の間に長い間培われた信頼関係があればこそであった。
一方で、積極的に協力してくれる人も現われた。宮内省内で天皇陵を管理する諸陵頭だった山口鋭之助がそうだ。大山古墳調査を認めてくれた人物である。
彼は京都帝大教授や学習院の院長を務めた物理学者であったが、樹木に興味を持ち、静六の森づくりに賛同し、神宮の森の完成後、樹林の中には人を入れないこと、落ち葉を掃いたり集めたりしないこと。もちろんそれを焼き捨てることなく、自然の状態にとどめおくことを約束してくれた。この伝統は今に至るまで守られている。

造営にあたっては、今で言うところのボランティアが多数参加してくれた。
真っ先に奉仕を申請したのが、あの不二道孝心講である。例の土持の行である。
彼らは大正六年(一九一七)四月六日より一〇日までの五日間、本多邸に近い渋谷区富ヶ谷の名教中学(現在の東海大学附属高校)に宿泊し、精進潔斎して、午前八時より午後五時まで社殿裏盛土工事に従事した。
そのほか神宮の建設を待ち望んでいる東京市民はもとより、北海道をはじめ全国から青年団や在郷軍人会が勤労奉仕に集まってきた。
こうして着々と社殿、参道、池などの土木工事が進行していった。

静六のほうも植栽できるところからはじめていった。
肝心の木だが、一万三〇〇〇本ほどはもとから現地に生えている木があった。
遠くは木曾御料林、近いところでは巨木が豊富にあった白金御料地(現在の国立科学博物館附属自然教育園と東京都庭園美術館)などから八〇〇〇本ほどが移植され、二〇〇〇本ほどは購入した。
だが、これではとても足らない。
そこで〝献木〟を募ることにした。発案者は初代の神宮造営局長であり当時の東京府知事であった井上友一だと言われている。
果たして募集したところ、サハリン、朝鮮、台湾を含む全国から申し込みが殺到し、その数九万五〇〇〇本強に達した。東京市内の小学校児童からは五二七〇本もの献木が行われている。
白石家は親しい折原家の面々に加え、婿殿の本郷が中核となって参加していることもあり、一万本もの榊(さかき)苗の献木をおこなっている。

献木には運搬という大変な作業が伴った。
植栽に適当な季節に合わせて掘り起こし、根廻し(主要根以外を切り、ひげ根を発生させておくこと)を施し、準備が整うと荷車や荷馬車に積載される。搬出に先立って神職を招いてお祓いをし、注連縄を張り、明治神宮献木の高札が立てられた。
市街地の運搬は終電後の時間帯に行うよう配慮がなされた。
献木の行列が街道を行き、川を渡り、鉄道で運ばれていく。「明治神宮御造営用品 荷受人 東京市四谷区大番町 明治神宮造営局青山工務所」との木札を掲げた樹木に限り、鉄道や汽船の運賃を半額にする協定が結ばれていた。船着場や駅舎に到着するたび、船員や駅員らは深々と頭を下げたという。
明治神宮の南参道第一鳥居の左側の守衛所近くには、静六の郷里から献木されたクスノキの巨木が移植された。これは静六の親戚宅にあったクスノキを静六の依頼により、河原井村の青年団員が大八車で運んだものである。
煙害に対しても留意された。
蒸気機関車の煙による被害を予見し、ヒサカキやモチノキなど煙害に強い樹木を原宿側に植えて内部の森林を保護した。足尾銅山や小坂鉱山、別子銅山などの公害調査を行なったのが、ここで役立ったのだ。

明治神宮の鎮座祭が行われたのは大正九年(一九二〇)一一月一日のことである。
静六も衣冠束帯姿でこれに加わった。東京のど真ん中に神苑を作り出した達成感は言い知れないものがある。東京市民の、そして渋沢の期待に応えることができたことに心から満足していた。
午後になって一般に公開されたとき、五〇万人以上が参拝した。三が日の初詣の参拝者が三〇〇万人を越える昨今とは違うが、それでもけが人が出たという。
実は静六は造営期間中の大正六年(一九一七)三月六日に義母の梅子を、大正九年一月一二日には実母のやそを亡くしていた。この大事業の完成を二人の母に見せることが出来なかったことだけが唯一の心残りだった。

外苑についても触れておきたい。
こちらの完成は内苑より時間を要した。
明治天皇の御葬場殿址を残し、大帝の御聖徳を永く後世に伝える聖地として位置づけられた空間でありながら、芝生やイチョウ並木を配し、明快広闊な気分を横溢せしめる現代式庭園というコンセプトで建設された。
ところが肝心のマスタープランは、本多案と川瀬案と原案が対立し、紛糾してなかなかまとまらなかったが、建築の専門家である佐野利器が三案をベースにした新たな青写真を描き、皆が了承して最終案となった。
設計案の対立は珍しいことではない。
表参道の設計にしても、伊東忠太東京帝大工科大教授はS字状の遊歩道を提案したが、同じ東京帝大工科大学教授の関野貞が、本来、参道は他の神社同様直線であるべきだと主張して今の形に落ち着いた。もし伊東案が採用されていたら、原宿までの道の渋滞はいかばかりだったか。だがみんな懸命に議論していたのである。

外苑の絵画館はヴェネチアを拠点に活躍した画家・寺崎武男が壁画の保存法から陳列法まで八度にわたって長大な報告書を提出し、ルーブル美術館の〝ルーベンスの間〟を参考にするべきだと強調。絵画の選定も含め、時間が最もかかったが隅々にまでこだわった建物ができあがった。
外苑のイチョウ並木は原の弟子である折下吉延(おりしもよしのぶ)の設計による。
折下は外苑造園のためにわざわざ渡欧し、パリのシャンゼリゼ通りなどに代表される、並木道で公園を結ぶ〝連絡式公園〟を参考とした。
佐野利器案では二列だったイチョウ並木を折下は四列にした。折下は関東大震災後、東京の隅田公園や横浜の山下公園などの建設の指揮を執り、原の弟子でありながら、日本の近代公園建設においてはむしろ静六の後継者と言っていい業績を残していく。
そして外苑絵画館竣工を待って奉献式が行われたのは、鎮座祭に遅れること七年の大正一五年(一九二六)一〇月のことであった。
余談だが、明治神宮では神宮の森に対し、〝社(もり)〟という字を当てている。それは周囲の木々が社殿と一体になって明治神宮を形成しているという考え方からである。
最近、外苑の再開発問題が浮上し、多数の木々の伐採が予定されていると聞く。木々は明治神宮の一部であるという考え方を関係者みなが共有した上での計画であって欲しいと願うばかりだ。

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