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【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #66

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永遠の森66


第五章 人生即努力、努力即幸福 (12)
職業の道楽化

静六は〝計画はいかにそれが上出来であっても、計画にとどまるうちは無価値である〟と語っているが、見事なくらい二五歳の時に立てた人生計画通りに生きてきた。
実はそこには秘訣があったのだ。あくまでも楽しくやることである。
計画を立てるだけでなく、時折振り返り、計画通りかどうか一喜一憂しながら、それをまるでゲームのように楽しみながら生きていた。楽しくなければ長続きはしない。続けることが大きな成果につながる。これこそが本多静六の成功の秘訣だった。
仕事に関してもそうだ。大学の教員であることを心から楽しんでいた。
「研究をしたくて研究者になったので、学生の指導はちょっと…」
と口にする先生をしばしば見かけるが、静六は違う。
同じ講義資料を使わず、最新の知見を加えたものを前日徹夜してでも作成し、学生が聴きやすいように講談調を取り入れる努力までした。それは研究同様、学生の指導も教員の重要な使命であることを十分に自覚していたからだが、それだけではなかった。教えることが楽しくて仕方なかったからだ。
定年退官してからは帝国森林会に通うようになり、渋谷の自宅から赤坂まで毎日徒歩で通って体調管理をしつつ、昼食は六銭の盛りそばかうどんの出前で済ませ、懸命に働いた。これまた毎日楽しそうであった。
大学教授時代からそうであったが、ちょっと具合が悪くても職場に行けばけろりと治ってしまう。そのため勤務時間には無頓着で、出張に出かけている時以外は日曜でも祭日でも暇さえあれば職場に出かけていった。
仕事人間とも違う。純粋に働くことが楽しいのだ。楽しいと体調もいいし仕事に集中できる。社会に認められる業績も残せるし、社会貢献につながる。
そんな自らの体験を通じ、
「人生の最大幸福は職業の道楽化にある。富も、名誉も、美衣美食も、職業道楽の愉快さには比すべくもない」
と断言している。
職業を道楽だと思える境地にたどり着くためには努力しかないと彼は説く。努力すれば向上し、向上するから楽しくなり、生活も楽になってくる。まさに「人生即努力、努力即幸福」というわけだ。
そして彼が得た確信は、
「『天才マイナス努力』には、『凡才プラス努力』のほうが必ず勝てる」
というものであった。

静六は、自らがたどり着いたそうした境地をいろいろなところで広めようとした。
埼玉県人会から講演を頼まれた際も、「職業道楽論」というテーマで話をした。それを会場の一番前で聴いていたのが渋沢だ。ほかでもない。次の講演者が彼だったからである。
渋沢は静六の話に深くうなずきながら聴いていたが、自分の番になって演台に立つと、静六の話を踏まえた上でこんな昔話を始めた。

「若い頃、私の故郷に阿賀野の九十郎という七〇いくつになる老人がいて、朝早くから夜遅くまで商売一途に精を出していた。ところがある時、孫やひ孫たちが集まり、『おじいさん、もうそんなにして働かないでも、うちには金も田地もたくさんできた。伊香保かどこかへ湯治にでも行って、ゆっくりしたらどうです』と勧めたところ、九十郎老人の曰く、『俺の働くのは俺の道楽で、今更俺に働くなと言うのは、俺にせっかくの道楽をやめろと言うようなものだ。まったくもって親不孝なやつらだ。それにお前たちはすぐ金々と言うが、金なんか俺の道楽のカスなんだ。そんなものはどうだっていいじゃないか』と言われた。諸君も本多博士の説に従って、盛んに職業道楽をやられ、ついでにまた盛んに道楽のカスを貯めることですな」

会場には深い感動の輪が広がったが、静六もそのうちの一人だった。
以来、職業の道楽化について話す際、〝道楽のカス〟〝仕事のカス〟という言葉をよく使うようになるが、それは静六と渋沢の合作だったのである。

職業の道楽化と並んで大事だと静六が語ったのが家庭生活の円満だ。
それをこれまで担ってくれていたのが銓子だった。静六の銓子に対する愛情の深さと感謝の気持ちは疑う余地がない。晩年の著作を見ても彼女の内助の功への言及が頻繁に出てくる。
しかし五五歳で男やもめというのはきつかった。前を向くため、ほどなくして再婚を決めた。相手は川村いく。資産家の川村家から嫁いできた明るい女性だった。
晩年の静六の写真には、決まって彼女が影のように寄り添っている。いくが心細い思いをしないよう、努めて大切にしていた様子も窺える。静六にとっては心の安らぎとなった。
彼は自身の経験を基に次のように書いている。

〈男子の再婚は、いつの場合も躊躇なくこれをすすめる。三―四十代の若いときについてはもちろん、六―七十歳で男やもめになった場合も、その人が無病息災である以上、できるなら適当に後妻を娶るべきであると考える〉(『人生計画の立て方』)

そうした事情もあり、六五歳になった時、渋谷区桜丘町一七番地の家を博夫妻に譲り、近くの九五番地に三五坪ほどの二階建ての家を建てた。周囲から三メートルほど高い場所にあり、ウナギの寝床のように細長い敷地だ。狭かったが景色は良かった。
色々と注文を付け、埼玉出身の有名な住宅設計家である山田(やまだ)醇(じゅん)に設計してもらった。いざという時、二階を貸せるよう、玄関からすぐ二階に上がれるようにし、二階にも便所と洗面所を設置し、屋根裏全部を物置にしたので三階建てにも等しい効果を生んだ。
自慢だったのが三畳の自室だ。一畳の押し入れの下の部分が空間になっており、昼間はものが置け、夜は足を入れて寝られるようになっている。大資産家なのに自室が三畳。その質素さには驚かされる。
博の家はすぐ近所だから、その後も頻繁に行き来があった。
特に孫の健一はよく静六になついていて、しばしば遊びに来た。静六も「坊や、坊や」と言ってかわいがっていたが、質素倹約を旨としていた彼のことなので、お菓子やおもちゃをやることはまずなかった。その点だけは決して揺るがなかった。
中学に入った頃、勉強にいるものならば買ってもらえるかもしれないと思って、かねてから欲しかった英語の参考書を買ってくれとねだってみたところ、
「坊や、ほしいものがあったら親に言いなさい。本当に勉強に必要なものならば必ず買ってもらえるよ。親に言わないで他の人に頼んだりしてはいけません」
と諭されてしまったという。
お使いに行った時など、近い所は電車があっても歩いて行きなさいと言われた。そして用を済ませて帰ってくると、電車賃分を小遣いとしてくれる。電車に乗った〝つもり〟というわけだ。
「感謝はものの乏しきにあり、幸福は心の恭謙(きょうけん)(貧しき)に存す」
静六のそんな言葉が長く健一の記憶に残った。

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