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【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #49

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永遠の森49

【本郷高徳】

第四章 緑の力で国を支える (19)
有徳の人・本郷高徳

静六は日比谷公園の設計を機に、造林だけでなく造園の第一人者としての地位を意図せずして獲得することとなった。結果として全国から公園の設計・改良の依頼が殺到し、やがて彼は〝わが国公園の父〟と呼ばれるようになる。
後に東京高等造園学校(現在の東京農業大学地域環境科学部造園科学科)を創立して初代校長となり、造園学の大家となる静六の弟子の上原敬二東京農大名誉教授は、静六は〝造園に関してはあくまで素人だった〟とその著作の中で再三指摘している。
だが、それでも結果として第一人者になり得たのは、あらゆる分野に通暁しようとする旺盛な知識欲に加え、持ち込まれた難題に決して背を向けなかった彼の生き方にある。帝大教授という社会的地位に傷がつくかもしれないとわかっていても、彼は〝乃公出でずんば〟の心意気で引き受けた。そこに本多静六の偉大さがある。
上原は〝彼は素人だった〟と言うが、プロとは造園学で学位を取っている者のことを指すのだろうか?もしそう考えていたとしたら、上原は〝アタマよりウデ〟だという静六の教えを理解していない不肖の弟子と言わねばなるまい。
だが、その上原も高く評価していたのが本郷高徳だった。
彼は本郷のことを〝縁の下の力持に甘んじた有徳の篤学者〟としている(『この目で見た造園発達史』上原敬二著)。
世に埋もれさせてしまうには惜しい、この本郷高徳というすぐれた林学者について少し触れておきたい。

本郷は明治一〇年(一八七七)、東京市牛込区牛込河田町(現在の新宿区河田町)で、旧宮津藩士の家に福田徳三として生まれた。後に本郷姓を名乗るのは、本郷家に嫁いでいた姉房子が夫と死別して実家に戻ってきた代わりに本郷家を継ぐこととなったためである。
本郷はまれに見る秀才だった。そもそも姉の房子も岩倉遣米欧使節団の一員として津田梅子らとともに海外留学の話も持ち上がったほどの才女だったが、幼すぎて可哀想だと父親が断ったのだ。
小学校高等科から東京英語学校に進んだ彼は、日本一のエリート校だった第一高等中学に入学するもノイローゼになってしまい退学。この頃から、勉学よりも健康を優先せざるをえない人生がはじまる。
後に東京帝国大学農科大学乙科に入学したのは、演習林実習などを通じて健康を回復することができると思ったからである。乙科というのは一般に専科と呼ばれる履修コースだ。経済的な理由などにより旧制高等学校を卒業していない学生を救済するためのもので、本科とは歴然とした違いがあった。

だが静六は本郷の才を愛し、乙科出身であるにもかかわらず自らの助手とした。
精神的に弱いところのあった本郷は、静六のように依頼を真正面から受け止めて事業責任を負うのは荷が重い。だが静六の助手であれば、やりがいのある大きな仕事に恵まれる。縁の下の力持ちであることは本郷にとって、願ってもない環境だった。
加えて本郷は造園学に興味を持っており、静六が引受けた日比谷公園の仕事などは渡りに船。これを皮切りに、静六の心強い右腕として多くの仕事に携わっていく。

静六はそうした本郷の頑張りに報いてやりたいと考えた。
静六の実家である折原家が、資産家である白石家と姻戚関係にあったことはすでに触れた。長兄の金吾は白石家当主の白石昌字と妻同志が姉妹であり、次兄吾造は昌字の妹に婿入りしている。
ここで静六は、本郷に昌字の次女徳子との縁談を持ちかけた。話はトントン拍子に進み、静六の媒酌で無事結婚することとなった。
この縁談は静六の目論み通り、本郷に大きなチャンスを与えることとなる。
日比谷公園完成の三年後にあたる明治三九年(一九〇六)八月、白石家の財政援助により、ドイツ留学をすることができたのだ。留学先はもちろんミュンヘン大学である。そして見事、ドクトル・エコノミーを獲得する。
卒業時の口頭試験には例のブレンターノ教授もいたというから、本郷はやはり優秀だったのだ。もっとも彼の場合は静六と違い、ちゃんと四年間勉強して卒業している。

だが禍福はあざなえる縄の如し。残念にも、本郷の帰国後の待遇は静六のそれとは雲泥の差だった。
帝国大学農科大学の講師として、林学実科で森林保護学とドイツ語を担当することとなった。ミュンヘン大学でドクトルを取ったにもかかわらず、助教授はおろか本科の講師にもなれなかったのだ。
すでに教授陣が充実していたことに加え、本郷が本科でなく実科の出身だったことが尾を引いていたのだろう。
加えて世間の評価と違い、静六が帝国大学農科大学内では変わり者として教授会では力を持っていなかったことも背景にあった。本郷のみならず、彼の弟子たちはそれゆえに苦労することとなる。
それでも静六は、まだ何とか本郷を引き上げてやりたいと考えた。
大正五年(一九一六)、東京帝国大学農科大学造林学教室で静六は景園学(後の造園学)の科外講義をはじめ、同じく彼の弟子である田村剛とともに本郷に講師をさせている。将来、景園学の講座を科外ではなく正式のものに昇格させ、彼らを助教授や教授にする道を開こうとしたのではないかと推測する。

だが、そもそも造園学の本流は別にあった。
東京農林学校で園芸学を講義していた福羽逸人を祖とする流れである。
福羽は静六の一〇歳年上で、津田仙(津田梅子の父)が起こした学農社で造園学を学び、わが国の造園学教育の先駆者となった人物だ。
明治一九年(一八八六)に欧州留学しイタリアやフランスで園芸を学んだ福羽は、大輪の菊の品種改良や温室栽培の導入、福羽いちご(女峰はこれを改良したもの)、小豆島のオリーブ、葡萄酒醸造など、さまざまな業績を残している。
東京農林学校の福羽の門下生には、静六の一つ年下である原煕(東京帝国大学農学部農学科教授)や市川之雄(宮内省技師)がいた。原は福羽からフランス西洋庭園の系統を引き継ぎ、ドイツ流の造園を導入しようとした静六とは一線を画することとなる。
静六は相変わらず、学閥がどうこうということにからきし興味がない。林学科と農学科の両方に造園学の講座がある状態がしばらく続いたが、大正八年(一九一九)九月、静六と原が協議した末、農学科園芸教室で造園学を開講することが決まり、静六が造園学総論・公園論、原が庭園論を講義することになった。
静六が造園学総論を講義するとはいえ、講座は農学科に一本化されたわけだ。実質的な主導権が農学科の原の手に移ったことにより、本郷の帝大での出世の道は閉ざされたと言えるだろう。

そんな学内の事情は別にして、公園設計の依頼は引きも切らなかった。世間から頼られ、自身の力を発揮できる場所がある。それ以上何を望もう。その後も本郷は黙々と仕事を続けていく。
それはまさに、静六がよく口にした〝アタマよりウデ〟の実践そのものであった。

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