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【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #36

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永遠の森36

【秩父 演習林】

第四章 緑の力で国を支える (6)
秩父への山林投資で大資産家に

千葉演習林に続き、明治三二年(一八九九)には北海道演習林が設置された。その面積は千葉演習林の九〇倍近い約二万二七〇〇ヘクタールに及ぶ。
北海道に演習林を設置しようという話になった際、政府は同じ北海道でも広く平坦な森を推薦してきたが、静六は敢えて起伏のある場所を選んだ。
それが富良野(ふらの)の少し南にある山部(やまべ)の森であった。

富良野は近年、ドラマ「北の国から」で有名になり、ラベンダーの時期ともなると大勢の観光客が押し寄せるが、当時はまだ富良野の開拓が始まって間もない頃で、札幌から汽車で何時間もかかる辺鄙な場所である。もっと言えば、十勝線が延線して富良野駅まで伸びたのは、北海道演習林設置の翌年のことであった。
おそらく静六は鉄道敷設の情報を、前もって情報を入手して動いていたのではないか。そもそも彼は日本鉄道顧問で鉄道林設置を任されており、こういう情報に接しやすい立場にいたわけだ。
山部には日本最大級の原生林があった。山あり谷あり湧き水あり。標高一九〇メートルの低地から最高地点は一四〇〇メートルに及び、夏の気温は三〇度を超え、冬の気温はマイナス二〇度にもある。様々な環境を体験できるという意味において、演習林として申し分ない環境だった。
今でもここには、豊かな自然に恵まれた夢のような世界が広がっている。
静かな樹海にクマゲラのひなの鳴き声が聞こえ、エゾジカの雄が勇壮な姿を見せる。夜になると穴からエゾモモンガが顔を出す。渓流のほとりには黄色いエゾノリュウキンカが咲く。
そして今に至るまで、ここで研究を行う者はみな、静六の慧眼の恩恵を受けているのである。

当初反対が出たのが嘘のように、その後も次々と演習林が設置されていった。
明治三五年(一九〇二)には台湾演習林、大正元年(一九一二)には朝鮮演習林、大正三年(一九一四)には樺太演習林、大正五年(一九一六)には秩父演習林、大正一一年(一九二二)には生態水文学研究所、大正一四年(一九二五)には富士演習林(現在の富士癒しの森研究所)、昭和一八年(一九四三)には樹芸研究所。
亜寒帯から亜熱帯まで、海岸から亜高山帯までの教育研究の場が設けられた。
戦後、台湾、朝鮮、樺太の演習林はなくなるが、現在でも演習林は全国七ヵ所、総面積は東京山手線内面積の五倍に当たる三万二三〇〇ヘクタールにおよんでいる。
そして秩父演習林に関して、静六はちょっと変わった関わり方をしている。それは意外にも彼の資産運用と関係があった。

四分の一天引き貯金をタネ銭に株式投資に乗り出した静六だったが、明治三三年(一九〇〇)頃から、山林投資をはじめていたのだ。
目をつけたのは秩父郡大滝村の山林だ。
江戸時代を通じて幕府の直轄領で、〝御林山(おはやしやま)〟と呼ばれる幕府の用材供給を目的とする森林であった。御林奉行の管轄下にあったから当然手入れは行き届いていた。
だが明治に入ってからは、大きな河川沿いや、鉄道に近い森林の価値が上がる一方で、牛馬を使って曳かなければ切り出すのが難しい秩父の山は敬遠される傾向にあり、なかなか買い手がつかなかった。

投資資金は三万円ほど(現在価値にして六億円ほど)用意した。
いちいち実測できないので、所有者と一緒に山に登って反対側の山を指さし、
「あの谷からあの谷まで全部で何百町歩になりますかな?」
と尋ねておおよその見当をつけ、
「では、そこの土地と立木全部を買わせていただくとして、これくらいでいかがでしょう」
と個別に交渉しながら買い取っていった。
売値は一町歩(約一ヘクタール)がたった四円前後(現在価値にして八万円ほど)。東京ドームと同じ広さの山林が、今なら三八万円ほどで買えたことになる。
それでもみな喜んでくれ、珍しく買い手があらわれたというので、村人がこぞって持山を売りに集まってきたことさえあった。

周囲の鉄道網の敷設年代を調べていて発見があった。明治三四年(一九〇一)に秩父の山林の麓の寄居を結んで上武鉄道(現在の秩父鉄道)が開設しているのである。
先述の富良野もそうだったが、静六には鉄道敷設の情報を得るルートがある。なんと言っても上武鉄道は渋沢の故郷である熊谷を始発としていたのだ。渋沢を通じて聞いていた可能性は十分あるだろう。
だから秩父の山林の価値がこれから上昇すると踏み、乾坤一擲、大きな投資に打って出たのではないだろうか。当時はインサイダー規制などないから、情報を早くつかんで機敏に動いた者が勝ちだというのは当たり前のことであった。

そのうち静六が買っているのを聞きつけ、三井や三菱が動き始めたが、その頃には静六はもう当初予算額をすべて使って八〇〇〇町歩からの山林を購入済みであり、その後さらに買い増して約一万町歩になっていた(東京ドーム二一〇〇個強)。
日本を代表する財閥を向こうに回し、巨額な投資をする大学教授など前代未聞であろう。本多静六はビジネスの世界でも成功したに違いない。

静六は運にも恵まれていた。
明治三七年(一九〇四)の日露戦争で木材需要が急拡大したのだ。当然、価格は高騰していく。
木材を切り出すようにとの政府の指導もあり、立木だけを一町歩二八〇円で一部売却することにした。当初の買値の七〇倍である。切ったあとにはまた植林した。
秩父の山林経営は、静六を大資産家にした。
ある年の年収二八万円(現在価値にして六〇億円前後)で、当時における淀橋税務署管内の長者番付一位だったという。

〝このまま天引き生活を継続しても金の使いようがなくて困るという有様で、全く夢のような状況になり〟と述懐しているが、その金を今度は自分に投資した。
海外を視察して回り、先進的知識を貪欲に収集したのだ。
台湾(一八九六)、樺太・シベリア・中国・韓国(一九〇二)、台湾・フィリピン・ オーストラリア(一九〇三)、中国・韓国(一九〇六)、ヨーロッパ(一九〇七)、東南アジア(一九一三)など、彼はその生涯に私費による海外視察を一九回も行なっている。
それらの経験は「本多造林学」シリーズの『改正 日本森林植物帯論』(一九一二)や『世界森林帯論』(一九一六)の出版に結びつくなど、豊かな実りをもたらした。
帰国する都度、渋沢に呼ばれて新知識を披露するのも恒例となっていた。

そして彼は大正五年(一九一六)、所有する秩父の山林のうち約三〇〇〇ヘクタールを東京帝国大学に売却している。
秩父の地に演習林を設けようというのだ。
どういう価格で売却したのかはわかっていない。自分の職場相手に大きな利益を出したとは、彼の日頃の行動からして考えにくい。そもそも東京に近い秩父の地に演習林を確保できたメリットは、大学側からしても大きかったのは間違いあるまい。周辺の山林を追加購入していることでもそれがわかる。
こうして約六〇〇〇ヘクタールからなる秩父演習林が誕生したのである。

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