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【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #67

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永遠の森67


第五章 人生即努力、努力即幸福 (13)
四分の一天引き貯金余話

静六の家族にしても弟子たちにしても、静六の没後、いの一番に彼の思い出としてあがるのが四分の一天引き貯金にまつわる苦労話であった。
この話が出ると彼らの表情はきらきらし、自分がいかにこれで苦労したかをとうとうと披露し合う。するとそこになんともいえない一体感が生まれ、皆うんうんとうなずきながら故人を偲ぶというのが常であった。
銓子は見事耐え抜いたが、大変だったのが彼を学問の師と仰ぐ弟子とその奥方だ。静六が熱くその効用を語るので、周囲も真似せざるを得なくなる。
後に日本大学教授となった中島卯三郎の妻が五つの子どもと渋谷の道玄坂を歩いていると、その子が白十字という洋菓子屋の前で立ち止まった。
買ってほしそうに見上げる彼に、
「食べたつもりになって、気分で食べるのだよ」
と言って聞かせたが、そんな言葉が通じるはずもない。
「気分じゃ嫌だぁ」
と泣き出されて閉口したという。

九州帝国大学教授となる佐藤敬二(けいじ)のように、静六に心酔し、徹底して真似をした弟子もいた。だが、やはりここでもしわ寄せは奥さんにきた。
佐藤の死後、未亡人の佐藤まつ子が思い出を語っている(「本多静六先生の思い出」『本多静六通信』第八号 本多静六博士を顕彰する会編)。
佐藤敬二は昭和二年(一九二七)の卒業生である。この年に静六は定年退官しているから、最後の教え子ということになる。大学院に進んだ後、国立林業試験場技師、九州帝国大学助教授を経て教授に就任した。
まつ子夫人は佐藤と昭和三年(一九二八)に結婚し、渋谷の神泉に住んだ。桜丘の本多邸とは目と鼻の先だからしばしば本多邸を訪れたが、石垣のバラの花がとてもきれいだったのが印象に残っているという。
結婚後、本多邸に挨拶に行った際、いきなり、
「学者の細君は貧乏に慣れることが第一だ」
と言われたのには驚いた。
だがその言葉の意味はすぐにわかった。佐藤は師をならって四分の一天引き貯金を始め、買ったつもり、食べたつもりという、本多式倹約貯蓄を励行し始めたからだ。講談を講義の話し方の参考にしたと聞くと、自分も新宿の演芸場に通った。
「本多静六先生の思い出」には面白いエピソードが紹介されている。
演習林で獲れた猪を鍋にするというので、同じ渋谷に住んでいた佐藤夫妻が本多邸に招かれた時のこと、彼女が少しでも箸を置くと静六は、
「嫌いか? 嫌いか?」
と尋ねてきて、そのせっかちな性格にあきれたという。
時々佐藤は静六から原稿執筆を頼まれたが、そんな時、静六は散歩がてら佐藤家まで足を延ばし、
「本多じゃ、本多じゃ」
と門をたたき、原稿料を自分で持ってきた。
静六は原稿料の半分を佐藤に、残りの半分を帝国森林会の収入にしていたという。原稿料は臨時収入だからすべて貯金に回ったに違いない。
佐藤は東京帝国大学農学部が本郷に移転した折、東中野に転居。その後、九州帝国大学農学部に奉職すると、本多家との行き来は少なくなった。
それでも静六への心酔は続き、なんと静六自慢の三畳の自室そっくりの部屋まで福岡の自宅に作ったというから病膏肓(やまいこうこう)に入っている。
だが大事なことは、静六の薫陶がその気骨にまで及んでいたということだ。
戦争が激化した折、演習林を軍用に転用したいと軍部が強硬に要求してきたが、佐藤はこれを拒み、文字通り〝首を賭けて〟九州帝国大学の演習林を守り通した。
あっぱれな弟子だと言うべきだろう。

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