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【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #51

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永遠の森51

【日本のバーデン・バーデン 由布院】

第四章 緑の力で国を支える (21)
日本のバーデン・バーデン

和歌山公園の設計で対立した静六と南方熊楠だったが、二人の間には大きな共通点があった。
南方と言えば熊野のクスノキの保護活動が有名だ。一方の静六も、日比谷公園の大イチョウの移植に自分の首をかけたくらいで、木に対する愛情は人一倍深い。
静六は二〇年かけて日本全国(朝鮮、台湾を含む)の老樹古木を調査し、そのうち一五〇〇本を選出した上で、大正二年(一九一三)、『大日本老樹名木誌』として世に問うた。加えて同年、老樹巨木に順位を付けた『大日本老樹番付』も出版している。
現在も日本一の巨樹として知られる〝蒲生(がもう)の大クス〟(鹿児島県姶良郡蒲生町)が東の横綱(西の横綱は不在)なのは誰もが認める妥当な選択だろう。だが高岡の七本杉など、今はもう枯死して存在しないものも多いのは寂しい限りだ。
その『大日本老樹番付』の行司役に、静六はひときわ目立つように〝清澄寺の大スギ〟を記している。千葉演習林を開設させてくれた清澄の地への感謝の気持の表れであろう。
「巨木は〝生きたる記念碑〟であり、地域に伝わる老樹巨木を大切に見守ってゆくことは、故郷を愛する心、ひいては国を愛する心の基礎となり、風教上も大いに貢献する」
静六は熱く説いた。
南方とは、ともに木を愛する同志だったのである。

公園設計に関して、静六の超人的能力を示すエピソードを一つご紹介したい。
長野県内務部林務課は、静六に軽井沢と木曾を避暑地化する調査研究を委嘱した。
これに対し彼は、「軽井沢遊園地設計方針」(明治四四年(一九一一))と「隠れたる木曽の風景と利用策」(大正二年(一九一三))として立案している。
後者は雑誌『太陽』にも掲載されているので、計画書を実際に書いたと思われるが、前者はなんと宿泊先であろう油屋旅館(上諏訪温泉の油屋旅館と推測する)で一〇月三〇日に口述筆記されたものなのだ。
もちろん手元にメモがあったにちがいないのだが、その「軽井沢の特徴を発揮するための二十六ヶ条」ではじまる口述筆記の内容が、軽井沢の地形や林相を詳細に調査したものであり、改善策を整然と列挙しているのに驚嘆する(長野大学紀要 第42巻第3号「本多静六口述『軽井沢遊園地設計方針』の現代語訳」)。

同様のことは他でもあった。そもそも彼の場合、講演がこの報告書同様、極めて具体的なのだ。
由布院温泉といえば、大分県にあるわが国を代表する温泉地だが、ここが発展するきっかけを与えた人物こそ本多静六その人であった。
関東大震災の翌年にあたる大正一三年(一九二四)一〇月一〇日、彼はその由布院町から町おこしのための講演を依頼され、この地を訪れた。
今でこそ全国第二位の源泉湧出量を誇り、世界的に知られる温泉地だが、当時は別府十湯の一つに数えられはしたものの、鄙(ひな)びた田舎町であった。

静六は到着するやいなや現地の人の案内で町内を視察して回った。
〝豊後富士〟の名で親しまれる名峰由布岳の麓に広がる雄大な自然は思った以上に素晴らしかった。中でも由布院盆地の中心にある金鱗湖の美しさには感動した。
その風景を見た瞬間、彼は公園を作ることを忘れた。その代わり、頭の中にはっきりとした一つのイメージができあがってきた。
そして迎えた当日、綿陰尋常小学校(現在の由布院小学校)の講堂で「由布院温泉発展策」と題した講演が行われた。
静六の言葉にはいつになく力がこもっていた。由布院の将来に大きな可能性を感じていたからだ。
開口一番、彼はこう提案した。
「町の中に公園があるのではなく、公園の中に町があるような温泉地を目指してはいかがでしょう。ヨーロッパ有数の温泉地として知られるドイツのバーデン・バーデンがまさにそうです。町全体を森林公園に見立てた滞在型温泉保養地を目指すのです」
この講演を聞いた者の中には、バーデン・バーデンを訪れたものはおろか、聞いたことのある者さえほとんどいなかったはずだ。
だが静六はその情報のギャップを埋めるかのように、その温泉地がいかに素晴らしいものであるかを力説した。思わず長く滞在したくなる理想の温泉地の姿が、童話の世界のように、聴衆の脳裏にくっきりと浮かび上がってきた。
自分の住んでいる町がそうなったらと思うと陶然とした。
「周辺にスギやヒノキが多いのが少し気になります。山桜や紅葉といった広葉樹を植林してみてはいかがでしょう」
春や秋に来る行楽客の目を楽しませるための仕掛けである。
そして最後に、
「金鱗湖は今でも十分美しい。なまじ手をつけて景色を台無しにしてはいけません。全体のまちづくりの方向性が決まってから考えたほうがいいでしょう」
と念を押した。
静六は忙しい人だ。講演が終わるとすぐその日のうちに帰京していった。
だが彼はこの短い間に、未来を変える仕事をしてのけていたのだ。彼の話は由布院の人々の心をとらえ、彼らは自分たちの向かうべき方向をしっかりと見定めていた。

不幸にしてその後、戦時色が濃くなって保養地どころではなくなり、ついには戦争が起こって長い空白ができた。しかし由布院の人達は、この静六の講演録を戦後になるまでじっと大事に温め続けていたのだ。
そもそも由布院はその昔、隠れキリシタンの村であった。長く耐えて信仰を守ることには慣れている。そうした風土が彼らの我慢強さの陰にあったのではないかと筆者は推測する。
昭和三〇年(一九五五)、由布院町と湯平村が合併した際、町名を湯布院町にした。町名には彼らの不退転の気持が込められていた。
機は熟したのである。
初代湯布院町長の岩男頴一(ひでかず)の初仕事は、バーデン・バーデンに視察に行くことであった。
そこで彼が驚いたのは、由布院の自然とそっくりだったこと。バーデン・バーデンを目指せと言った静六のアドバイスが単なる思いつきではなく、如何に現実的なものだったかを思い知った。
「やってやろうではないか!」
彼らは立ち上がった。
そもそもが田舎町だったので歓楽街がなかったのがよかった。派手なネオンの目立つような建物を一切廃した。日本の四季を楽しめるように、植林も静六の提案をもとに行われた。
彼らの懸命な努力により、静六が語った〝町全体を森林公園に見立てた滞在型温泉保養地〟はついに現実のものとなり、今では十数年連続して温泉地日本一の称号を手にするまでになった。
まさに未来を作る仕事。泉下の静六の得意や思うべしである。

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