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【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #11

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永遠の森11

第二章 暗い井戸の底をのぞき込んだ日 (4)

性格と人相を変える努力

静六は自らの人生を、人並み外れた努力と工夫によって切り開いていった。
実家にいた頃の勉強時間不足は〝米搗き勉強〟で克服し、東京山林学校に入学してからの運動不足は〝エキス勉強〟で乗り切ったわけだが、今度は驚くべきことに、自分の性格をも矯正しようとするのである。

彼は自分の性格に関して、こんな思い出話を自伝に記している。
満一〇歳頃のこと、若い女性の使用人が米を研(と)いでいる時、米を流しにこぼしているのを見つけた。これはあまりにもったいない。一生懸命自分が搗いた米だという思いもあったのだろう。その場で叱っただけでなく、母親に告げ口までした。
それを大叔母が見ていた。彼女は祖父友右衛門の妹で他家に嫁いでいたのだが、たまたまこの日は実家に来ていたのだ。
彼女は静六を家の近くの森の中まで連れていくと、こう諭した。
「人間は寛大でなければいけません。人のアラを見つけて小言を言ったり告げ口をするようでは決して出世できません。奉公人のした落ち度や過ちは見ても見ぬふりでいるか、または進んで自分がその罪過ちを背負って助けてやるくらいの心がけがなければ」
心のこもった諫言だった。
後年、静六が〝功は人に譲り責は自ら負う〟とか〝善を称し(褒め)、悪を問わず〟といった言葉を信条としたのは、彼女の教えを忘れず反芻し続けたためであった。だが〝冷や酒と親の小言はあとから効いてくる〟という言葉がある。大叔母の言葉が身にしみて理解できたのは、実際にはずっと後のことであった。
そもそも静六は生まれつき、負けず嫌いで強情なたちだ。
〈早く父に別れ、苦労して育ったためか、成長とともにますます頑固となり、偏屈となり、何事にも反抗的な態度をとって、人を信じ、人に従順になるということがなかなかできにくかった。ことごとに一理屈も二理屈もこね回さなければ気が済まず、ほかからは多少立てられながらも、なんとなくけむたがられ、万事に人に協調し難いところがあった〉(『体験八十五年』)。
要するにこう言えるようになるまでに、相当の時間がかかったと言うことなのだ。
それにはあるきっかけがあった。

東京山林学校時代のこと、静六の偏屈な性格を見かねた島邨は、彼を呼んでこう言った。
「お前は相当に頭もよく、また勉強もするが、持って生まれた強情の癖が強いので、この分では自分で自分の意地に食われて、いじけた変人になってしまう。僕がせっかく修養の話をしても、お前は一向信じない。とても僕の力ではお前の強情は直せそうもない。幸い天源淘宮術(てんげんとうきゅうじゅつ)の新家春三(にいなみはるみつ)先生は、悪い癖を直す専門の大家であるから、その方に頼んで弟子にしてもらうことにする」
東京で勉強させてくれたことといい、東京山林学校を紹介してくれたことといい、落第の件を黙っていてくれた件といい、島邨には大恩がある。その島邨の言葉にも、静六は素直に耳を傾けなかったようだ。これは相当性格がねじ曲がっていると言わざるを得ない。 

ある日、島邨は神田五軒町にあった新家のところへ静六をつれて行き、そこに彼をおいて自分は大蔵省へ出仕していった。
天源淘宮術とは横山丸三(よこやままるみつ)という旧幕臣がはじめたもので、占いと修身を合体させたような教えである。もともと天源術は生年月日を調べ、〝畑〟と呼んでいる人相を見て、その人間の未来を占うものであった。
占いというのは本来すべて運命論だ。それに対し横山は、持って生れた性格の悪い点を矯正することで運命は改善できるとし、天源淘宮術を考案して世に広めたのだ。
新家は同じ幕臣であった横山から教えを受け、淘門の四先生と呼ばれるまでになった。そんな新家なら、静六の性格を矯正してくれるに違いないと島邨は踏んだのだ。
余談ながら、島邨邸内に住み、静六に幾何を教えてくれたあの細井均安は、この天源淘宮術にのめり込んで一家をなすまでになっている。島邨と新家の関係に、この細井が介在しているのは間違いあるまい。
新家のところに一人残された静六は、彼からこう尋ねられた。
「君は何年何月生まれかな?」
「慶応二年七月二日生まれです」
すると新家は手元の本で何やら調べ、さらに静六の顔をまじまじとながめると、占いの結果を静かに語り始めた。
「君の運勢はあながち悪くもないが、畑はずいぶん悪いな。なるほど君は利口だ。しかし常に心苦しい思いをしている。強情で議論好きで、疑い深くいじわるで怒りっぽく、喧嘩好きでやせ我慢をしがちだ。これでは人と仲良くできず、人に嫌われ敬遠され一人ぼっちになり、世の中を悲観し、陰気になり、病身になる可哀想な運勢だ。現に今日も、君は弟子になるつもりでなく喧嘩口論のつもりで来たのだろう?」
散々にこき下ろされ、さすがにむっとした。
「別に毎日心苦しいとも思いませんし、あなたと喧嘩しに来たわけでもありません」
「そうか、それでも君の顔にはケンカに来ましたと書いてあるぞ。嘘だと言うならこの鏡を貸してあげるから自分で見るがいい。この本の中の練老兌止奮の図と比べて、君の顔にその相があるかないかを丁寧に調べてみなさい」
新家はそう言い残すと奥に引っ込んでしまった。
当時の静六は背が曲がり、やや前屈みの痩せ型で、陰険な鋭い眼つきで、いつも苦虫をかみつぶしたような顔をしていた。胃腸と目が悪かったこともあり、余計人相が悪くなってしまったのだ。
あらためてその人相図と自分の顔とを引き合わせしみじみ眺めると、なるほど喧嘩の相といじわるの相が歴然と現れている。これには参ってしまった。
一時間ほどして再び新家が出てきたところで、静六は兜を脱いで頭を下げた。
「悪うございました。入門いたしますのでどうぞご教導お願いします」
「まだ二、三度くらいかかるだろうと思っていたのに、なかなか分かりが早い。この分だとものになりそうだ。よく教えてあげるから、熱心に修行しなさい」
そう言って入門書をくれ、それから毎日曜日に先生のところへ行って淘宮術と観相術を学ぶことになった。
当時、新家はすでに七〇を超えており、明治二三年(一八九〇)六月にはこの世を去っているから最晩年での出会いだった。

新家は次のように静六を諭した。
「君が持って生まれたその性癖は容易には直らないが、しかし直さなければ君は意地に食われて死ぬばかりだから、死んだつもりで懸命に直しなさい。君は常に人から利口だえらい男だと言われよう言われようと思っているが、それが一番悪い癖の源だから、これからはあべこべに、バカになろう、バカになろうと心がけ、何でも人の言うままに従順になって、『あれは薄馬鹿だ』と言われるくらいになれば、それが君の成功の始まりだ」
静六は早速、悪いところを直すことを決意。手帳の一ページ目に悪いと思う癖を箇条書きに書き上げた。誰かに見られると嫌だと思い、書きにくいところは符号で書いた。そして朝起きた時と寝る前とは勿論、人混みの中でもどこでもヒマさえあればそれを見て悪癖を直すことに努力した。
また顔は心の姿であって、悪相になるのも福相になるのも心の持ち方如何によるものだというのが新家の教えである。そこで静六は鏡を身近なところに立て〝見心是正〟の師としていい顔をするよう努力した。
幸い二〇歳ごろからは丸々と太った体となり無病健全。気持ちも至極明朗となり、人の意見も素直に聞き、信用するようにもなり、たとえ騙されて損をしたり自分の功を奪われたりしても、それが修養なのだと思えるようになった。
腹がたってもすぐ気持ちの転換もでき、しだいに福相になっていった。

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