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【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #33

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永遠の森33

第四章 緑の力で国を支える (3)
わが国初の防雪林

静六がドイツ留学から帰ってきた時、何人もの人が祝いの席を設けてくれたが、郷土の偉人渋沢栄一もその一人だった。
同郷とはいえ、普通なら近づくこともできない相手だが、晴れて帝国大学農科大学助教授に就任した静六は、一気に上流階級の仲間入りをしていたのである。
その席で渋沢は土産話を所望した。当時は海外からの情報は少ない。それを聞くことが彼の最大の目的だったのだ。
若い頃の渋沢は城山三郎から〝建白魔〟と評されるほど、上司に提言をすることで知られていた。それは抽象論や精神論ではなくどれも現実的なもので、この提言こそが彼の異例の出世の原動力だった。
この時、静六も渋沢ばりの提言をする。それが防雪林についてであった。

彼は留学からの帰途カナダに寄ったが、カナディアン・パシフィック鉄道(太平洋と大西洋を結ぶ大陸横断鉄道)に乗車した際、線路を守るかのようにそびえ立っている防雪林に深い感銘を受けた。
「雪深いカナダの地では、防雪林が大いに効果を発揮しているようです。我が国の鉄道にも有効であろうと考えます。さっそく試してみられては如何でしょうか」
この提言に、渋沢は大きくうなずいた。
渋沢が日本鉄道(日本初の民営鉄道会社、現在のJR東日本)の設立に参画し、その後も役員をしていることを静六は知っていた。日本鉄道はこの前年、東京・青森間に東北本線を開通させたばかりだったのだ。
問題は冬季の運行だ。いたるところで吹雪が吹き荒れ、列車はしばしば立ち往生する。そのような事態に備え、列車にはビスケットやウイスキーなどの非常食や燃料である薪炭を多めに積みこんでいたほどだった。
地吹雪の著しい区間には丸太を組んだ防雪柵が設けられてはいたが、強風によって倒壊したり蒸気機関車の煙突から出る火の粉で延焼したりという事故が多発したため、さらに効果的な対策が急がれていた。

渋沢という男は、やると決めたら神速である。
すぐに静六を日本鉄道の嘱託とし、彼の指導によって明治二六年(一八九三)、東北本線水沢・青森間の野辺地(のへじ)保線区に防雪林が設置されることとなった。
北は陸奥湾、南は烏帽子岳(えぼしだけ)に挟まれ、ヤマセの影響で一年を通じて気温が低いこの地域は、青森県内でも指折りの豪雪地帯である。一方で漁港もあり、交通の要衝でもあったことから、この地域の鉄道の安全運行は地元民の悲願であった。
防雪林は、風に飛ばされてきた雪を林の中に堆積させて線路上の吹き溜まりを少なくする仕組みだ。そのため林の幅を広くし、樹林密度を高くする必要がある。冬に葉を落としてしまう広葉樹や落葉針葉樹よりも常緑針葉樹が適していた。
まずは野辺地周辺の一・七ヘクタールほどの土地に、スギ二万一〇〇〇本、カラマツ一〇〇〇本を試験的に植林してみた。
「これはいけそうです」
という現場の報告を受け、その後すぐに植林を四一ヵ所(五二ヘクタール)に拡大。木が成長するにつれ、防雪効果が顕著に認められはじめた。
その後、他の豪雪地帯にも急速に普及していったが、表面だけ静六のまねをしたところは痛い目に遭った。
たとえば官鉄の奥羽本線がそうだった。彼らは明治三九年 (一九〇六)、防雪林設置に着手したが、土塁を築く際に肥沃な表土を削り取ってしまったために、苗木のほとんどが枯死してしまったのだ。
その後、鉄道国有法が施行され、鉄道院が設置されて日本鉄道も国有化されると、静六は全国の防雪林設置計画に携わっていくこととなった。

静六らしいのは、防雪林を二列とし、一列を伐採しても残りの一列だけで防雪効果が出るよう設計したことだ。伐採した木材を売却することにより、次の植林のための苗代と労賃を確保するという自給自足体制を目指したのだ。
この仕組みはうまく機能したが、戦後、経営状態の悪化した国鉄は防雪林を払い下げて換金しようとする。そんなことをしたら、せっかく二列にしている防雪林も全部伐採されかねない。
この計画をラジオで聴いた静六は、直ちに時の運輸大臣・小沢佐重喜(さえき)(小沢一郎の父)のもとに書簡を送り、その暴挙をいさめ、取りやめさせた。
防雪林の危機を未然に救ったのだ。
ただ、この静六のビジネスモデルも、防雪林を設置し始めて七〇年が経過した頃から、さすがにうまく機能しなくなっていく。昭和四〇年代の半ば過ぎから、木材価格の低迷と人件費の高騰が顕著になってきたためだ。
だが伐採収益による経済林的経営が困難となっても、防雪林を含む鉄道林全般の重要性が低下したわけではない。崖崩れ防止など、今でも大いにその役割を果たし続けているのである。

静六の功績を後世に伝える遺物は極めて少ない。
だが防雪林に関しては、JR東日本の東北本線野辺地駅構内に静六の揮毫した「防雪原林」という碑があり、鉄道記念物に指定されている。
彼は字がうまくないことについてはすでに触れた。この防雪原林の碑を見ると、さほど気にするほどの悪筆とは思えないが、達筆であることが知識人のたしなみであるこの時代、本人は相当気にしていたようだ。
そのため彼の手による碑は、この野辺地駅のもの以外、わずか一カ所しか確認されていない。それが昭和一三年(一九三八)、千葉県安房(あわ)郡天津小湊(あまつこみなと)町(現在の鴨川市)の旧天津町役場に建てられた「部落有林野統一記念碑」である。
これは旧天津町内の三部落(天津、濱荻(はまおぎ)、清澄(きよすみ))が所有していた林野が町の一括管理になったことを記念したものだ。以前まで入会地として部落の管理であった森林をまとめていく作業は大変な体力を要するものだったが、そんな理由だけで静六がわざわざ碑を書くはずもない。
この清澄の地には、日本初となる帝国大学農科大学の千葉演習林が設けられたのだ。
次回では、静六が深い思い入れを込めた大学演習林設置の苦労について述べてみたい。

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