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秀吉を天下人にしたのは「見えない資産」だった?

「偉人たちの投資のツボ」の第3回目です。
前回までの記事をご覧下さった方、ありがとうございました。

今回は、天下統一を成し遂げた豊臣秀吉の「投資のツボ」を探ります。

先日、レオスが運営するYouTubeチャンネル『お金のまなびば!』にこんな動画をアップしました。

この動画では、仕事でチャンスをつかむにはスキルや人脈づくりなどの「見えない資産」が大切であるということをお伝えしているのですが、今回は天下統一を成し遂げた豊臣秀吉の「見えない資産」について考えてみました。様々な「見えない資産」を持つ秀吉ですが、今回は「目利き力」、「巻き込み力」、「革新的な考え方」に注目しました。
それでは、早速詳しく見ていきましょう。

秀吉の武器「目利き力」

豊臣秀吉といえば、数々の映画やドラマ・漫画などで題材として取り上げられていますが、「人懐っこく人に取り入るのがうまい」というイメージで描かれることが多いと思います。例えば、三谷幸喜さん監督作品『清須会議』では、大泉洋さん演じる秀吉は農民に愛され、信長の弟・三十郎信包など要人を味方につけながら、対抗する柴田勝家へのフォローも忘れない(最後は出し抜くのですが…)というキャラクターとして描かれています。

実際秀吉は、優秀な人材の目利きに優れており、仲間に取り込むことに長けていたようです。
秀吉が才能を見抜き、味方につけた人物は何人もいますが、ここでは二人に絞って紹介します。

一人目は、知略をもって活躍した竹中半兵衛です。

秀吉は信長の家臣だったころに竹中半兵衛をスカウトし、半兵衛はその後、織田家の客将(配下ではない武将)として活躍するようになります。
1570年の織田信長・徳川家康の連合軍vs浅井長政・朝倉義景の連合軍が衝突した「姉川の戦い」で、竹中半兵衛は浅井長政の家臣を寝返らせ、この戦いの勝利に貢献しました。
これ以後も羽柴秀吉時代を支えるなど、秀吉にとって必要不可欠な軍人の一人となります。
実は、半兵衛は信長からの誘いを何度も断っていますが、「秀吉の客将なら」と織田家のために戦うようになったとされています。

もう一人は、軍師として秀吉の天下統一に大きく貢献した黒田官兵衛です。

当時、多くの豪族たちを織田家の味方に付くよう説得していた黒田官兵衛の可能性を買い、秀吉は同じ織田家側の人間として官兵衛と仲良くなるために、直筆の手紙を送りました。
黒田官兵衛は、「中国大返し」の前に、備中高松で戦っていた毛利と和睦交渉を成功させたように、交渉で敵を降伏させるという、当時では稀有な才能で活躍していました。

秀吉は、ただ戦いに強い武士だけを登用するのではなく、戦略を立てるのがうまい竹中半兵衛やコミュニケーション能力に長けていた黒田官兵衛など様々な才能を持つ人をバランス良く登用していたという印象を持ちました。

誰でも巻き込んでしまう戦略家

中国地方の覇権をめぐる「備中高松城の戦い」の際、秀吉軍は奇策と言われる水攻めを行ないました。備中高松城は低湿地帯の中にあり、沼地が天然の堀となって行く手を阻み、鉄砲や騎馬戦法といった力攻めでは容易に破れない難攻不落の城でした。
そこで約3kmにおよぶ堤防を築いて城の周囲を水没させ、備中高松城は湖面の浮城となりました。物資・食料の補給路を断たれた城主・清水宗治は湖上に小舟を浮かべて自刃し、備中高松城は落城したのです。

強靭な堤防を造る必要があり、多くの人手を要しますが秀吉は、付近の農民たちに「土俵一俵につき米一升と銭100文」、つまり土俵を担げば担ぐほど稼げるというシステムを作ることによって農民からの協力を得ようとしました。狙い通り多くの農民の協力を得ることができたのですが、結果的に、この工事にかかった費用は約63万5,040貫文(換算方法は所説ありますが、現在のお金に換算すると約762億円!)、米は63,500石とも言われています。

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自身の軍だけで戦おうとせず、軍以外の人とも連携することで全体の効率化を図り、戦略的に戦いを進めることもあったようです。

秀吉の目線は長期?

秀吉は天下を取る過程で、「惣無事令(そうぶじれい)」という命令を発令しました。
惣無事令とは、天皇の補佐役である関白となった秀吉が全国の大名に向けて発令した停戦命令です。

戦国時代、大名は領地運営のための政策として軍事侵略を行なっていました。目的は自国の富の拡大など様々だったようですが、この軍事侵略によって自由に領地を広げることができました。
当時の日本は小国が乱立していたので、各々が軍事侵略をすれば各地で争いが絶えない状態となります。
そこで惣無事令では、大名同士の私戦を禁止し、秀吉による裁定で平和的に紛争を解決するよう呼びかけたのです。
その平和的紛争解決方法に反対するものは、武力を行使して罰することができるような制度を作りました。
しかし、当時はまだ秀吉に屈していない大名もいて、当然反発もありました。そこで秀吉は、「自分は天皇に委託された立場でこの令を発令する」とし、自身の格を全国の大名に示し、天下統一への足掛かりを作ったのです。

これまで私の中での武将像は「激しい戦いの中で自ら軍の先頭で戦い勝つ」というイメージでしたが、なんと秀吉は額に一つ傷がある程度だったそうです。
惣無事令は、戦においても政治においても優秀な人々や要人をおさえ、戦略的に勝利を手にしていったことを象徴していると感じました。

また、秀吉はその人柄や功績を「大胆で革新的であった」という印象で語られることが多いのですが、
ひとつの解釈として秀吉が「長期目線」であったこともまた、他の大名との差なのではないかと考えました。

多くの大名は武家出身であり、彼らの使命は「家・領地を守ること」が一般的だったそうです。自分の代で家を途絶えさせないことに意識が向いているため、大きなリスクをとって世を変えるという発想にいたらなかったのではないでしょうか。
一方、農家出身の秀吉は家を守る必要がなく、「天下統一」という大きな目標を持つことができ、より長期で広い目線で自分の野望や日本のことを考えていたのではないでしょうか。他の大名と見ている視点が違うため行動が異なり、そういった部分が当時の人には革新的に映ったのかもしれません。

現代においても、既成概念にとらわれずに新たなサービスや商品を生み出している企業が多く存在しますし、そういった企業を応援する投資家もいます。
現在の価値観では世の中に受け入れられるかわからないものでも、例えばApple社のiPhoneのように誰にとっても身近で当たり前になり、生活を激変させた商品やサービスもいくつもあります。
世の中を変化させてきたのは、秀吉のように未来を長い目線で捉え、リスクをとってチャレンジしてきた人物や企業であり、その努力のおかげで私たちの社会はゆたかになっていくのではないかと思いました。

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「財産を貯め込むのは、良い人材を牢に押し込むようなものだ。」

秀吉は、財産をため込むことは様々なチャンスを逃すことに繋がると考えていたようです。上記でも触れましたが、「備中高松城の戦い」で農民に協力してもらうために多額の投資をしています。
必要な時に投資をして、チャンスを掴んでいく姿勢がこの言葉にも表れています。多くの財産を保有することで権威を誇示するのではなく、財産を積極的に使うことで実質的に戦いを有利に進めることができ、天下統一に繋がったのだと思います。
また、秀吉自身のコミュニケーションスキルや人を見抜く能力などの「目に見えない資産」を用いてかなえていった人物であったことがわかりました。

私は来年から社会人となります。「これからは個の時代」というのもよく耳にしますし、自分自身の目標の達成や、社会にどんな形で貢献できるか考えたときに、自分自身への投資が大切だと感じました。
勉強や体験にお金を使い、私自身の「見えない資産」をふやせるように行動していこうと思います。

〈参考文献〉
『経済で読み解く豊臣秀吉』(ベストセラーズ)上念司 
https://shirobito.jp/article/1189

https://www.welcomekyushu.jp/kanbei/abouts.html

https://toyokeizai.net/articles/-/136862?page=4

https://kourajimusyo.com/rekiken4.pdf

Illustration:SHIMOZONO ERI


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