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【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #62

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永遠の森62

【関東大震災】

第五章 人生即努力、努力即幸福 (8)
関東大震災と復興計画

首都圏に長く住んでいると、人生で一度か二度、今で言う首都圏直下型地震に遭遇することが運命づけられている。静六にもその時が迫っていた。
当時の記録によれば、大正一二年(一九二三)は、六月頃から中規模の地震が頻発していた。それは来たるべき大地震の予兆だったのだ。
そして運命の九月一日がやってくる。
その日は朝から、重苦しい雨雲が東京の空を覆っていた。時計が午前一一時五八分を指し、人々が昼食の食卓につこうとした瞬間、足元からごおーっという地響きが伝わってきて一〇秒ほど続き、その後、船が暴風雨に巻き込まれた時のような激しい揺れが二分近く続いた。 
震源域は神奈川県西部から房総半島南東沖、規模はマグニチュード七・九。
神奈川県平塚市、茅ヶ崎市から房総半島の千葉県館山市にかけては震度七、東京都大手町、神奈川県横須賀市、埼玉県熊谷市、山梨県甲府市で震度六だったと推定されている。
昼時でどこの家庭も火の気があった上、間の悪いことに風速一五メートルを超える強い南風が吹いていた。案の定、あちこちから火の手が上がり、木造建築が密集していた地域では大きな竜巻のような火災旋風になって被害を拡大させた。
死者約一〇万五四〇〇人、全壊家屋約二九万四〇〇〇戸。
東京帝国大学も甚大な被害を受けた。駒場の農学部も被害はあったが、より深刻だったのは本郷キャンパスのほうであった。当時の校舎の壁はレンガだが、屋根も中もすべて木造。赤門脇から火が出ると、その日のうちに正門に至る主要な建物をすべて焼失してしまった。
中でも図書館の焼失は痛恨の極みだった。旧幕府関係資料や外国からまとまって寄贈された貴重な図書を含む約七五万冊の蔵書がすべて灰燼(かいじん)に帰したのである。

震災翌日の深夜、静六は後藤新平からの電話で起こされた。
「君に至急、復興計画を作ってほしい」
東京の復興を目指す帝都復興院総裁に、前東京市長でもある後藤が内務大臣兼務で就任することが決まったのだ。
「都市計画は公園を作るのとはわけが違う。あまりに無茶だ」
復興に協力したい気持ちは無論あるが、まったくの専門外では責任を負いかねる。
だが後藤は以前、静六がバルセロナの都市計画図を見せながら、それがいかに優れたものであるか話してくれたことを覚えていた。彼より都市計画に詳しい学者はいるのかもしれないが、静六ほど信頼できる者をほかに知らない。
後藤は諦めなかった。
「専門外だということは百も承知だ。だが何をやるにも原案がいる。原案があれば、それに対してそれぞれの専門家が意見を言ってくれる。基になる案がないと何も始まらん。急ぐんだ。頼む!」
後藤はそれだけ言って電話を切った。彼のことだ、もうそれで任せた気でいるのは明らかだ。
静六は覚悟を決めた。それから二晩徹夜し、バルセロナの都市計画を下敷きにして、帝都復興案を完成させるのである。

専門家の意見も加わって、復興計画はどんどん充実していった。復旧でなく復興である。これを機に抜本的な都市改造を目指した。特に意を用いたのが延焼を防ぐ工夫であった。
被害状況を調べた結果、火災の延焼は緑地により食い止められ、広い避難場所の必要性を示唆していた。そこで三つの大公園(隅田公園、錦糸公園、浜町公園)が新しく造られた。中でも日本初のリバーサイドパーク(河岸公園)といわれている隅田公園は、火災旋風にも耐えられるよう設計された一大避難地だった。
幹線道路もかつてない道幅を確保することになった。将来の交通量増加と、これまた延焼防止の観点からである。
新たに昭和通りが建設されることになったほか、水戸街道、言問(こととい)通り、明治通り、浅草通り、桜橋通り、押上通り(現在の四ツ目通り)、小梅通り、蔵前橋通り、京葉道路等も拡幅整備されることになった。その他、被害の大きかった地域では区画整理が計画された。
両国橋、吾妻橋(あづまばし)、厩橋(うまやばし)、白鬚橋(しらひげばし)を耐震構造の橋に架け替え、すみやかに被災地から移動できるよう蔵前橋、駒形橋、言問橋を新たに架橋し、江戸時代から続いていた駒形の渡し等は廃止されることが決まった。
被災者向け住宅建設のため内務省は財団法人同潤会(どうじゅんかい)を設立。東京や横浜に鉄筋コンクリート造りの不燃性を高めたアパートを次々に建設。耐震構造の小学校も建設された。地震により発生した東京の瓦礫は豊洲など湾岸の埋め立てに使用され、横浜市の瓦礫の埋め立てにより山下公園が開園された。

だが後藤と静六が考えた帝都復興計画はこんなものではなかったのだ。
当初案では、被災した土地をすべて買い上げて国が主導して整備を行うというものであった。これなら大胆な都市改造が可能になる。ところが土地所有者の同意を得られないとして採用されなかった。
復興予算も大幅に減額された。静六の素案を基に四一億円に上る大予算計画をぶちあげたが、大蔵省から当時の国債の発行限度額が一五億円であることを理由に却下され、七億五〇〇〇万円に減額されてしまう。
おまけに運悪く、震災発生の三ヵ月後の一二月二七日、無政府主義者の難波大助(なんばだいすけ)が摂政宮(後の昭和天皇)の乗った車に発砲する虎ノ門事件が起こり、山本権兵衛内閣は責任を取って総辞職。後藤も帝都復興院総裁を辞任する事態に陥った。
後藤が辞任すると帝都復興院は内務省の外局である復興局へと格下げとなり、復興予算も最終的には四億六八〇〇万円にまで減額されてしまった。
第一号幹線にしようとした昭和通りは当初幅一〇八メートルを超える計画だった。計画縮小の結果が現在の昭和通り(幅四四メートル)なのである。 
大規模な都市改造計画は夢物語に帰したが、後藤が静六のおかげで示すことのできた大風呂敷は、首都改造の絶好の好機を逸した残念な出来事として後々まで語り継がれることとなった。

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