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【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #63

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永遠の森63


第五章 人生即努力、努力即幸福 (9)
東京都とイチョウ

首賭けイチョウや東大正門のイチョウ並木もそうだが、以前から静六はイチョウという木に思い入れがあった。
ドイツでイチョウはゲーテの有名な恋愛詩「イチョウの葉」にちなみ、しばしば〝ゲーテの木〟と呼ばれている。ゲーテは六六歳の時に二五歳も年下の人妻に恋心を抱き、イチョウの葉とともにこの詩を贈ったのだ。静六が、イチョウを自分のドイツでの甘酸っぱい思い出と重ね合わせていたかどうかは定かではないが…。

帝都復興事業の一環として、東京駅丸の内駅前広場とそこから皇居に向かって延びる行幸通りの設計を任された時にも、彼はイチョウを用いている。
行幸通りは、皇室の公式行事や外国大使の信任状捧呈式などに使われる日本の顔とも言える道路である。四列のイチョウ並木を配し、道路中央には馬車道が設けられ、大正一五年(一九二六)に完成した。
戦後になって地下駐車場を建設する際、イチョウ並木は撤去されたが、東京駅改装に伴い、平成二二年(二〇一〇)、イチョウ並木も復元され、東京をヒートアイランドにしないための海風の通り道としても重要な役割を果たしている。
大正二年(一九一三)に発刊した『行道樹篇:明治天皇記念 附 緑蔭樹』の中でも、静六は街路樹に適した一級樹木としてイチョウを推薦している。
そこには木陰を作ることと別の、意外な効用が想定されていた。
〝ゲーテの木〟のようなロマンチックな愛称とはかけ離れているが、日本では古来、イチョウは〝火伏(ひぶせ)の木〟と称せられてきた。天明八年(一七八八)に京都を襲った天明の大火の際の、本能寺の〝火伏せのイチョウ〟や西本願寺の〝水吹きイチョウ〟のように、人々を救ったという伝説が残るイチョウも数多く存在する。
関東大震災の時も、それに似た話があった。浅草観音の本堂(観音堂)が被災を免れたのは、本堂の裏手東隅に立つ大イチョウが半分焦げながらも火を防いだからだと噂されたのだ。
静六はこれを聞いて喜び、
「イチョウには防火効果もあるから街路樹に最適だ」
と、以前にもまして推奨するようになった。
この頃、大阪の御堂筋の拡幅計画が発表され、街路樹を東洋的なイチョウにするか、それともシャンゼリゼ通りを思わせるプラタナスにするかで論争が起きていた。
静六の推すイチョウに異論を唱えたのが南方熊楠だ。彼は震災直後の大正一二年(一九二三)一〇月二五日付の大阪毎日新聞で次のように反論している。

〈誰も知る如く、此木は秋末葉が黄ばみ落て丸裸になり、次の春又芽を出す。扨(さて)、地震や火事は冬間無い物に定まっても居らぬから、葉の無い銀杏が冬の火難に用立つまい〉

イチョウは冬の間落葉しているのだから防火にならんだろうというのはもっともな意見だ。
だが南方の批判をよそに、御堂筋の街路樹はイチョウに決まる。正確に言えば、堂島川にかかる大江橋以北はプラタナス、土佐堀川にかかる淀屋橋以南はイチョウという折衷案だったのだが、やはり御堂筋と言えばイチョウのイメージが圧倒的だ。
大阪近郊にイチョウの良い苗木がなかったため、大阪市の担当者は植木で有名な埼玉県北足立郡安行(あんぎょう)村(現在の川口市安行)まで買い付けに行き、大阪市旭区の農園に植えて大阪の土になじませてから移植したという後日談まである。東京都がイチョウを都の木にしているのは有名だが、実は大阪府の木もまたイチョウなのだ。
果たして静六の圧勝であった。
平成元年(一九八九)に制定された東京都のシンボルマークにしても、
「これは東京の頭文字のTの字を意匠化したものであってイチョウではありません」
とわざわざ断りを入れているにもかかわらず、都民の多くがイチョウのマークと認識している。
この愛されように、静六はきっと泉下で満足しているに違いない。

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