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【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #58

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永遠の森58

【渋谷・本多邸】

第五章 人生即努力、努力即幸福 (4)
泥棒の取るものがない家

農科大学の官舎を出て彼が住んだ渋谷の本多邸について触れておきたい。
家族も増え、晋夫妻との三世代同居を考えて引っ越したわけだが、そもそも彼は大きな家が大嫌い。最初は書生や女中なしで住める家をと考え、豊多摩郡渋谷町中渋谷(現在の東京都渋谷区桜丘町)に小さな家を建てた。
周囲から三メートルほど高い場所にあり、ウナギの寝床のように長細い敷地だ。奥に晋夫婦の隠居する離れを造り、渡り廊下でつなげた。河原井村の折原家とよく似た構造である。
銓子のため、台所など彼女が長くいるスペースを一番日当たりがいいよう配慮した。二階は客間としていたが、将来貸家にできるようトイレや水道・ガス、玄関への専用階段など独立した構造にしておいた。
静六は灯籠を飾ったりした庭を好まない。二〇坪ほどの庭は全部畑にして野菜を植え〝花壇〟と呼んだ。小さく区間して大根、小蕪、ネギ、ほうれんそう、小松菜、つる菜、きゅうり、ナス、トマト、インゲンなどのほか、イチゴと菊など、一時は二〇〇種類あまりの植物を栽培し、手作りの一坪半の温室もあった。家庭菜園と言うより農業試験場のようである。
庭の端の石垣沿いにはバラのほか果樹が多く植えられ、道から見上げるようになっている。イチジクやミカン四種類、柿三種類、梅、ブドウ、ナツメなどが季節ごと、石垣の上に覆い被さるようにたわわに実った。最初は近所の子どもたちの格好の標的となったが、
「熟したらあげるから」
という協定を結び、両者の間に平和が訪れた。

大資産家となり社会的名声を手にしても、静六は相変わらずマイペースだった。
三七歳の時、家に泥棒に入られたが、
「自分もやっとのことで泥棒に狙われるような身分になった。ありがたい…」
とまずもって感謝していたというから呑気なものだ。
それはちょうど朝鮮出張の前の晩で、大学から支給された旅費は学校の金庫に預けておいて助かったが、小遣いとして持って行くつもりの八〇円余りと金時計とコートをもって行かれた。八〇円は現在価値にして一八万円程度だ。
連絡を受けた警察がかけつけ、現場検証に立ち会った。
「感心したことに、泥棒はわざわざ湯殿に回って雨上がりの泥足を乾かしてあった洗濯物で拭って上がってくれているんですよ」
という静六の言葉に、
「先生、それは座敷を汚さないよう遠慮したんじゃなくて、足跡を残さないためです」
と警察はあきれ顔だ。
「ともかく安眠の邪魔もせず、かつ私に増長するなという教訓を暗に示してくれた盗人様だから、捕まえる必要はありませんから」
と言って彼らには引き取ってもらった。

この一件は新聞に載ったらしい。
予定通り朝鮮出張に出かけて京城(現在のソウル)に着くと、行きつけの旅館天真楼の女将が、
「新聞で拝見しましたが、盗難にお遭いになったそうで」
と顔を見るなり言ってきた。すると静六は、
「その通りだ。ついては今回はお茶代やら何やら十分に置けないから行灯部屋にでも入れてくれ」
と真顔で応じた。
万事に節約した結果、帰宅の際にはなお四〇円余り残っていたという。
いつもなら旅行帰りには財布が空になるのが常だったから、泥棒のおかげで四〇円余りの節約をしたわけだ。泥棒も八〇円あまり儲け、一挙両得(?)の結果だと満足し、雑誌にこう書いた。

〈盗人はなかなか感心な御仁で、旅費は学校からもらっただけでたくさんだ。余分は俺様が貰っていく。ただし入れ物は必要だろうと、財布と汽車のパスはちゃんと残しておいてくれた。時計も別にニッケルの古いやつがあるはずだから、金時計は取り上げる 。コートも新しい方は貴様には贅沢だから持って行く。古いボロの方を着て行けというふうに旅行に一向に差し支えないように古物を残しておいてくれた〉

記事を読んで銓子はあきれた。彼女は怖くて仕方なかったからだ。
「そんなに盗人礼賛すると、また入りはしませんか」
「それでは安心できるようにしてやろう」
ここで静六は驚くべき行動に出た。
貴重品は人にあげたり処分したりして、家の中に盗まれて惜しいものが何もないようにしたのだ。
その後、一向に泥棒は入ってこなかった。
「割に合わない家には入らないらしい」
静六はそう言って笑っていた。

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