
【北康利連載】二宮尊徳~世界に誇るべき偉人の生涯~ #42
二宮尊徳はどんな人か。かう聞かれて、尊徳のことをまるで知らない人が日本人にあったら、日本人の恥だと思ふ。それ以上、世界の人が二宮尊徳の名をまだ十分に知らないのは、我らの恥だと思ふ。
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第42回 烏山藩仕法
菅谷も話を聞いて、これは金次郎に頼むほかあるまいという意見であり、藩主に話して金次郎宛の依頼状を書いてもらうことにした。
こうして菅谷は、円応とともに藩主の書状を携え、金次郎に面会を求めた。
家老直々の来訪ではあったが、金次郎の口からは厳しい言葉がついて出た。
「礼記(らいき)に『九年の蓄えなきことを不足という。六年の蓄えなきを急といい、三年の蓄えなきを国その国に非ずという』とあります。なのに今、たった一年の飢饉で立ちゆかなくなるというのは、一体どういうわけでしょう」
菅谷は返す言葉を持たなかった。
「全く面目次第もござらんが、何とか烏山藩のためにお力をお貸しいただきたい」
円応と一緒に頭を下げた。
「私は小田原藩の禄を頂戴する身。簡単に引き受けることはできませんが、烏山公はわが主君の縁戚に当たられる方ですから、烏山公からわが主君に御依頼いただければ、私に下命があることでしょう」
そう言って報徳金200両を彼らの前に置き、当座の資金とするよう申し出た。
「こ、これはありがたい…」
この年、出入りの御用商人でさえ一両も融通してはくれなかった。なのに200両もの大金を貸してくれたことには感激しきりだった。
何度も述べてきたように報徳金は無償贈与ではない。金次郎はその点、菅谷と円応にもしっかりと釘をさした。
「全額を5年間で分割返済していただきます。無利子ではありますが、もし今回の徳に報いる気持ちがあれば、冥加金としてさらに1年間か2年間、同額を払ってもらえるとありがたい」
「承知した」
天性寺にただちに御救い小屋が建てられ、救援の米麦やヒエが桜町から続々と送られてきた。この緊急措置により、餓死に瀕していた1,000人近い領民の命が救われた。
烏山領の人口は約1万。実に1割に当たる人々が死の淵から生還したことになる。
当座の救貧活動が一段落したところで、円応は金次郎に礼を述べるため、再び桜町を訪れた。
何か感謝の気持ちを表したいが、如何せん手土産を買う金も不如意である。そこで彼は川の中に入り、鮎をとって手土産に代えることにした。
これを見ていた村人たちは驚いた。
放生会(ほうじょうえ)という行事さえあるのである。殺生は仏道の戒めるところであり、坊主のすることではない。だが円応は敢えてそうした。信仰よりも礼をしたい気持ちが勝ったのである。
「拙僧自ら取って参りました。どうぞお召し上がりください」
金次郎には円応の気持ちが痛いほど分った。素直に感謝し、すぐに塩焼きにして膳に供した。
この後、烏山に帰ってからも円応は鮎を取り続け、市場で売ってその代金を報徳金返済に充てた。最初は生臭坊主と非難していた人々も、円応の気持ちを理解するようになり、むしろ敬意を集めた。
だが、この話には悲しい後日談がある。
飢民を救済したあとは、仕法を実行に移す番だ。仕法は飛び地でも行なわれた。
円応は相模国(さがみのくに)の烏山領(現在の神奈川県厚木市)での仕法の進捗を視察に赴き、その地で運悪く疫病にかかってしまう。薬石効なく、帰郷してすぐの天保八(1837)年12月、この世を去った。享年52。
崇高なその生涯を思い、金次郎は亡き円応の分まで烏山藩の仕法に力を入れていくのである。
本連載は会員制雑誌である月刊『致知』に掲載されている連載を、致知出版社様のご厚意で1ヵ月遅れで転載させていただいております。
次回は2月7日更新予定です。