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【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #59

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永遠の森59

【静六の好物・天丼】

第五章 人生即努力、努力即幸福 (5)
天丼会

静六は東京山林学校時代、幸手(さって)の叔父(金子茂右衛門)に上野広小路の梅月(ばいげつ)という店で天丼を御馳走になったことがあった。靴一足を三年、靴下一足を四年使っていたあの極貧の時代である。
天丼を食べるのが生まれて初めてだった彼は、
(この世にこれほど美味しいものがあったのか!)
と驚嘆した。
本当はもう一杯食べたかったが、これ以上散財させては申し訳ないと思い遠慮した。
だが思いは残り、その日の日記にこう書いた。

〈その価三銭五厘なり。願わくば時きたって、天丼二杯ずつ食べられるようになれかし〉

三銭五厘といえば現在価値にすれば三〇〇円ほどでしかない。並でも二〇銭以上したうな重と違い、天丼は庶民的な食べ物だったのだ(『値段の風俗史』週刊朝日編)。
おそらく「もう一杯!」と静六が言っても、叔父さんはまったく気にせず注文してくれたに違いないが、あの頃は東京で勉強させてもらっているだけで申し訳ない気持でいっぱいになっており、とてもそんなことは言い出せなかったのだ。

貧しいときの食べ物の記憶というのは、哀愁とともに深く刻まれるものである。
その日の天丼のことは片時も忘れることはなかったが、再会できたのは銓子と結婚してからのことであった。彼にとって本多家への養子入りは、ドイツ留学だけでなく、天ぷらがおなかいっぱい食べられることを意味していたのである。
『新人生観と新生活 第三篇』には、留学前の新婚時代には三日に一度〝天ぷら日〟があったことが記されている。
天ぷら日になると、今日は御馳走だからと早く起き、おなかを減らすためにいつもより働き、入浴して身体を清め、食膳についてからもすぐには天ぷらにいかず、枝豆などで〝一合の酒をちびりちびり飲みながら天ぷらの話をし、天ぷら欲を十分興奮させた上で〟はじめて天ぷらを出してもらうのだ。
さすがに新婚時代だけかと思ったら、〝二、三〇代は月一〇日以内、四、五〇代は月六回以内〟と書いているから、その後もペースはあまり変わらなかったようだ。
門下生が集まったときなども静六は決まって天丼を頼んでやったので、誰言うともなく本多家での集まりを天丼会と呼ぶようになっていった。
本郷、田村、上原のほかにも、白沢保美(山林局林業試験場長、都市緑化に尽力)、関口鍈太郎(京都帝国大学教授、造園学会会長)、永見健一(東京農大教授、震災復興公園計画に参画)、中島卯三郎(日大教授、皇居等宮内省関係庭園整備に尽力)など、多くの弟子たちが静六の薫陶を受けて世に出ていった。
天丼会に集う人数も次第に増えてくる。さすがに全部御馳走することはできなくなり、そのうち毎月五〇銭の会費制となった。

子どもたちの結婚披露宴も天丼会ですませた。
天丼会開催の通知を出せば、ご祝儀や服装の心配などせず、みんな普段通り集まってくれる。
その際に新夫婦を紹介し、
「今度結婚したからどうぞよろしく」
と頼む。
これで披露宴は終わりというわけだ。
弁護士になっていた長男博(ひろし)の結婚披露の時もそうだった。嫁の峰子(みねこ)は内心相当戸惑っていたはずだ。
峰子は元長岡藩士外山修三(実業家、衆議院議員)の三女で博より三歳下。外山は多くの企業の創立に携わり、渋沢栄一とも懇意で、阪神電鉄の初代社長でもある。タイガースの名前は彼の幼名の寅太にちなんだという説もあり、金属供出されるまでは甲子園球場の前に外山の銅像が建っていたほどだった。
そんな名家の子女であるにもかかわらず、この時、彼女は気丈にもお銚子を片手にお酌をして回ったという。
二人の間には大正一四年(一九二五)八月二三日、静六の孫となる一人息子の健一(けんいち)が誕生する。
静六は三人の娘たちの結婚に際しても、嫁入り道具の準備などは一切しなかった。欲しいものをみんな書き出させ、それが買えるだけの金額を貯金通帳に入れて渡してやったのだ。
買いたいものは買ったつもりになって、ひとまず三越かどこかに預けているつもりになっておく。そして本当に必要になったときだけ、その都度店へ取りに行く(買う)ことにしたのだ。
最初はみな不満を口にしたが、そんな娘たちも時間が経つにつれ、
「あれは本当によかったです」
と感謝するようになったという。だが果たして本心はいかに。

静六がひいきにしていた天ぷら屋が新橋の『橋善』だ。
巨大なかき揚げを乗せた天丼で有名な店だった。材料は小エビ、小柱、三つ葉だけで直径一二センチメートル、厚さは一〇センチもあろうかという大きさである。この大きさのかき揚げを上手く揚げるには熟練の技が必要で、揚げ鍋も南部鉄製の重さ二〇キロ、厚さは二センチもある大鍋を使用した。
小林秀雄などの食通にも愛され、来日した際のアインシュタインも橋善の天ぷら弁当のおいしさに感動したという。
長男の博は静六の死後、彼の一周忌法要を本多家の菩提寺である芝青松寺で営んだが、精進落としの席を虎ノ門の晩翠軒で開いた際、料理の最後に『橋善』のかき揚げを供した。
「皆さん、今日は中華料理でしたのに最後に天ぷらが出て驚かれたかもしれませんが、亡父はご承知の通り大の天ぷら好き。思い出の一つに召し上がってもらおうと思い、亡父が生前よく通った新橋の『橋善』さんに無理を言って届けてもらった次第です」
そう挨拶した。
なんという孝行息子であろうか。
ちなみに「橋善」は残念ながら平成一四年(二〇〇二)に閉店した。当時の思い出はセピア色になっていく一方だ。

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