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【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #65

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永遠の森65

【上高地】

第五章 人生即努力、努力即幸福 (11)
国立公園協会

そもそも森林は、林業のような経済面や防雪や水源のような機能面のみならず、風景美で人々の心を癒すという重要な役割を持っている。そのため静六は知らず知らずのうちに〝風景専門家〟として認知されていく。
大正二年(一九一三)四月の深夜、突然本多邸を訪れてきた二人の人物がいた。
宇治川電気(現在の関西電力)の技師長である石黒五十二(いそじ)と営業課長の林安繁(やすしげ)(後の宇治川電気社長)である。
現代では考えられないことだが、石黒は貴族院議員でもあり、不審な人物ではない。とは言っても、深更に一面識もない人の家を訪問するというだけでただならぬものを感じるし、そもそも二人とも表情がこわばっている。だが少し話を聞いただけで、その理由はすぐに合点がいった。
同社は琵琶湖から宇治川までの落差を利用した宇治川水力発電所を建設するために設立された電力会社である。八年近い歳月と巨費を投じ、ようやく完成が近づいていた。ところがここにきて大森鐘一(しょういち)京都府知事が開業認可を下ろさないと言い始めたのだ。
瀬田川洗堰(せたがわあらいぜき)のやや上流から取水して約一一キロの水路を通った水は宇治の仏徳山(大吉山)まで導かれ、ここで地中の発電用鉄管を通って落差六二メートルを落とされ、発電所のタービンを回す仕組みになっている。
仏徳山は宇治平等院の真正面に位置し、風致地区になっていた。そのため景観を壊さないよう地下に発電用鉄管を埋設していたのだが、急斜面だったこともあり、表面の土砂が崩落し、施工後に鉄管がむき出しになってしまったのだ。
激怒した府知事は彼らを呼び出し、
「早急に風景専門家の指導を受けて景観復旧の目処が付くまで、営業認可は下ろさん!」
と言い渡した。
「風景専門家とは一体どなたのことでしょう?」
おそるおそる尋ねると大森は言下にこう言った。
「本多静六博士だ!」
一日開業が遅れれば、融資の利払いだけでも数万円の損失が出る。一刻の猶予もならないと、彼らはその足で京都から飛んできたと言うわけだ。
その上で彼らはこう依頼してきた。
「どうか明朝、我々と現地にご一緒頂きたいのです」
彼らの焦る気持もよくわかる。
多忙の身ではあったが万障繰り合わせ、ともかく次の朝から現地の調査をはじめた。さすがに一日では終わらず二日間に及んだ。そして調査結果を基に崩落箇所の復旧計画を立案し、府知事に提出した。
〝風景専門家〟を連れてきた効果は絶大だった。無事開業認可が下り、石黒たちは胸をなで下ろした。実際、四年ほどもすると、どこに鉄管があるのか判別できないようになった。
宇治川電気は後に、わが国の五大電力会社の一角となるが、そこには静六の協力が重要な鍵を握っていたのである。静六はその後も、京都に来ると必ずと言っていいほど平等院に寄って仏徳山の山肌を遠望し、その後どうなっているか確認したという。
〈本多生涯の傑作であったといまにひそかに自惚れている〉
彼は『本多静六体験八十五年』の中でこう言って胸を張っている。

「いやしくも木が二本以上並んでいるところはすなわち〝林〟であり、林学者のアタマとウデを貸すべき領分である」
これが静六の口癖となり信念となっていた。
大正九年(一九二〇)一月六日から九日にかけて『大阪時事新報』に「水電事業国営論」を発表しているが、そのはるか前より〝木が二本以上並んでいる〟水源林の関連で、彼は水力発電に強い興味を持っていた。
埼玉には山林と水と石灰岩という資源があることに気づいていた静六は、渋沢が諸井や浅野総一郎とともに武蔵水電を設立し、大正三年(一九一四)、群馬との県境に近い児玉郡矢納(やのう)村(現在の埼玉県神川町)に埼玉県初の水力発電所を建設した際にも協力している。
そして民間の電力会社では資金集めに限界があることもつぶさに見てきた。「水電事業国営論」の中で、コストの高い火力発電から水力発電に舵を切り、多額の建設費用を国営事業としてまかなっていくべきだという主張を展開しているのはそのためだ。
もちろん〝風景専門家〟の立場からすれば、どこにでもダムを造っていいと言っているわけではない。飛騨山脈南部の景勝地である上高地(かみこうち)にダム建設の話が持ち上がった際には、加藤高明首相や長野県知事に対し、断固反対という建議を提出している。
静六は上高地に強い思い入れを持っていた。
昭和二年(一九二七)に大阪毎日新聞社・東京日日新聞社共催で日本新八景を選定するイベントがあった時も、審査員だった静六は渓谷の部で上高地を推している。地質学者の小川琢治(たくじ)京都帝国大学教授(湯川秀樹の父)は断崖絶壁の続く三重県熊野市の瀞八丁(どろはっちょう)を推し、激しい論争が繰広げられたが、結果として上高地が日本新八景に選ばれた。
静六が自信を持って推薦した上高地は、昭和九年(一九三四)、中部山岳国立公園の指定を受けている。この国立公園の設置にもまた、彼は深く関与していたのである。

アメリカが明治五年(一八七二)にイエローストーン国立公園を設置したのを皮切りに、世界中で国立公園を設置する風潮が広まっていたが、日本では明治どころか大正に入ってもまだ検討されていなかった。
国立公園設置の必要性を声高に唱えたのが、静六の弟子の田村剛であった。彼は内務省嘱託として公園行政を担当していたのだ。田村に背中を押され、昭和四年(一九二九)、まずは民間組織として国立公園協会を設立(会長細川護立(もりたつ))。静六は副会長に就任する。
当然、国に動いてもらわねば話しにならない。
ここで阿蘇国立公園の制定運動をしていた熊本の松村辰喜(たつよし)という人物が登場する。あまり世に知られていないが、壮士と言っていい情熱の持ち主だった。彼の根回しの甲斐あって、安達謙蔵内務大臣の自宅に陳情に行くことができた。
ただお願いしても、そう簡単に前には進まない。それは埼玉学生誘掖会設立の時から身に沁みている。この時静六は、私財を三万円(現在の五〇〇〇万円相当)提供すると申し出た。これでは内務大臣も断れない。副会長に静六を担ぎ上げた田村の作戦勝ちだった。
昭和四年、内務省に国立公園調査会が発足。昭和六年(一九三一)には国立公園法が制定・施行され、トントン拍子に話は進み、昭和九年(一九三四)三月には日本で最初の国立公園として、瀬戸内海、雲仙、霧島の三ヵ所が指定された。
後藤文夫内務大臣が国立公園設置の意義を〝非常時における国民の心身鍛練の場となる〟と説明したのは、戦時色の強まっていた時期だけに仕方がなかったのだろう。なにせ昭和一三年(一九三八)には国家総動員法が施行されているのだ。
ともあれ静六の滅私奉公の精神が国を動かし、またも大きな実を結んだのだ。

そして昭和九年一二月、日光、阿蘇、大雪山、中部山岳とともに阿寒国立公園(現在の阿寒摩周国立公園)が誕生する。
静六にとって、この阿寒国立公園の指定には特別な思いがあった。ドイツ留学を特別に許可してくれた前田正名校長への恩返しの気持ちが込められていたのである。
前田は晩年、自然環境保護に尽力していたが、前田のことを深く信頼しておられた明治天皇は彼の意を汲み、帝室御料地の払い下げを行った。このため彼は阿蘇、富士御殿場、阿寒等に約五〇〇〇ヘクタール以上の土地を持つ、日本最大級の地主になった。
中でも北海道は前田の思いの詰まった場所であった。阿寒湖一帯の美しさに魅せられた彼は湖畔に居を構えながら、釧路銀行を設立したほか、農場、牧畜、山林経営などを行って、地元の産業振興に力を入れた。
そうする間も自然保護に対する情熱は増すばかりだ。
「これらの山は切る山ではなく、観る山にすべきである」
と語り、この雄大な自然をどうやって残すべきか思案していたが、すでに老境に入っていたこともあり結論の出ないまま、
「前田家の財産はすべて公共事業の財産とする」
という遺言を残して、大正一〇年(一九二一)に他界する。
その遺志を継いだのが静六だったのだ。ドイツ留学のため特例の卒業を認めてもらった日から四五年の年月が経っていた。特別に繰り上げ卒業を認めてやった価値は十二分にあったと、泉下の前田も満足してくれたに違いない。

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