【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #17
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【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #17

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永遠の森17本多銓子

【本多静六を支えた妻銓子】

第三章 飛躍のドイツ留学 (1)

強引な卒業

二人が結婚した明治二二年(一八八九)当時、銓子は東京慈恵会病院の産婦人科、婦人科助手として隔日に半日ずつと、横浜のフェリスセミナリー(現在のフェリス女学院)で週二時間ずつ生理学の講義に行っていた。
それでも、いつも早く帰って来てご馳走を作り、静六の帰宅を待っていてくれた。
銓子の献身は当時の価値観で言えば、まさに〝妻の鑑(かがみ)〟であった。
銓子の蔵書が本多静六記念館に収蔵されているが、医学の専門書がずらっと並び、彼女がいかに優秀な医者だったかが伝わってくる。
これだけ優秀な女性なら家事より仕事優先にした方が世の中のためだと思うが、女性の社会進出について理解がなかった当時、妻が家事を優先するのは当然の責務だった。おそらく結婚を考えた時点で、彼女はこうなることを当然予期していたはずだ。
後年の銓子の行動から察するに、夫を支え子を育てることにも、医師となるのと同様、あるいはそれ以上の価値を置いていたように見受けられる。
男性は自らを過大評価し、女性は自らを過小評価する時代というほかない。
東京慈恵会病院で銓子が助手をしていた産婦人科、婦人科主任の岡見京子は、そんな時代の〝枠〟にあらがおうとした女性だった。銓子より五歳年上である。
日本で女医になれないならと夫に同行して渡米し、世界最初の女医養成機関であったペンシルベニア女子医科大学に入学し、博士号を得て帰国した。同大の博士号は東京医学校(後の東京大学医学部)卒業と同格として扱われたので、堂々と医者として活躍しはじめる。
ところが、二年少々しか経たない明治二五年(一八九二)六月、岡見は職を辞している。
皇后が行啓されるに際し、女医だから拝謁を遠慮せよと言われたことがきっかけであった。慈恵会病院とは言え、全員が全員、高木兼寛のように女医に理解のある人間ばかりではなかったのだ。
おそらく銓子はこの時、岡見に殉じて助手を辞めたものと思われる。その後、自宅で開業しているからだ。

結婚当初、静六の帰宅は毎日五時半ごろだった。四時過ぎまで研究をして駒場から歩いて帰るのだが、片道四キロもあったからだ。
帰宅後入浴して食膳に向かうまでに、両親が気をきかして先に夕食をすましていて、いつも夫婦水入らずで夕食をとることとなった。
夕食後、銓子はよく八雲琴(やくもごと)(弦が二本しかない日本古来の琴)をひいて聞かせてくれた。ムードは満点。新婚生活は想像以上に甘美な日々であった。さしもの静六も惑溺(わくでき)してしまい、勉強不足に陥っていった。
だがそこは克己心の強い静六のこと、三週間ほどするとこれではいけないと我に返り、銓子と相談の上で同衾(どうきん)するのは三日おきにした。
この頃、静六には甘い新婚生活に浸っておられない事情があった。
翌年(明治二三年(一八九〇))七月にはいよいよ卒業だが、彼は落第で半年を無駄にしている。そこでなんとか、みんなより半年前に卒業したいと考えた。普通の人間はそんな無謀なことなど考えもしないものだが、静六は違っていた。
そして彼の思いついたのが、卒業を四ヵ月繰り上げ、卒業試験を受けることなく、三月に留学の途につこうという計画である。静六には勝算があった。今まで彼の成績は平均九〇点以上だったから、卒業試験がすべて〇点でも卒業できる計算だったからだ。
問題は卒業論文である。
林学科のカリキュラムでは、四月から六月までは実地演習として山林地方を視察し、その成果を卒業論文にまとめて提出し、卒業試験を受験して七月に卒業することになっている。実地演習と卒業試験はパスするにしても、卒業論文は書かねばならない。
そこで静六は、六月締め切りの卒業論文を二月までに仕上げてしまうことにした。こうと決めたらまっしぐらだ。暗くなるまで学校に残って研究を続け、帰宅後は夜の一二時過ぎまで、しばしば二時、三時まで論文に取り組んだ。
銓子も原稿を清書したり、英語の参考書の翻訳をしてくれたりして協力してくれた。字は素晴らしく、英文翻訳は静六などよりよほど上手だ。これほど力になる助手もいなかった。

銓子の協力の甲斐あって、二月初めには卒業論文を書き上げてしまった。
留学先はもう決めていた。志賀先生が留学したドイツのザクセン王立ターラント山林学校である。志賀に紹介状を書いてもらえば、間違いなく入学できる確信があった。
すべて準備を整えた上で、卒業論文をもって学長の前田正名に直談判に出かけた。いよいよ勝負の時である。
前田は明治二二年(一八八九)一〇月から農商務省の局長と東京山林学校の校長を兼務していたが、翌年一月には農商務省次官に昇進していた。
後に男爵元老院議官となることでもわかるように、前田は普通の学長ではない。
わが国の殖産興業に大きな足跡を残し、自然保護の重要性を喚起するなど時代を先駆けた働きをし、明治天皇から絶大なる信頼を得ていた人物だ。
それでも静六は物怖じしない。世間を知らないというのは時として力になるものだ。これは若者の特権だろう。
「来月から留学したいと思いますので卒業を許可していただけますか?」
農商務省次官室におもむいた彼は、堂々と申し出た。
これには、さしもの前田も驚いた。
「何を言ってる。演習旅行も終わっていないのでは卒業論文も書けまい」
「では卒業論文が書ければいいのですね」
「まあそうだ」
「それなら今ここに持っております」
こうしたやりとりは岳父晋との結婚交渉で手慣れている。待ってましたとばかりに懐中の論文を差し出した。
これには前田も目を丸くして驚き、
「随分用意周到だな。とにかく見てやろう」
と論文を受け取ってくれた。

おそらくその論文は相当出来が良かったのだろう。
銓子の美しい文字も好印象だったに違いない。これまで首席を続けてきたこともあって、前田は寛大にも、実施演習の代わりとしてドイツ留学を命ずという辞令を出してくれるのである。
東京農林学校はその後まもなくして農商務省から文部省に移管され、新たに帝国大学農科大学に改称・改組されることとなるが、卒業前にこうした留学を許可したのは、後にも先にも本多静六ただ一人であった。
静六の幸運は、この頃、人材を抜擢する気運の強かった明治初期の名残りがまだ少し残っていたことに加え、学長が度量の大きな人物だったことだろう。
それに、若い頃、兄の献吉とともに英和辞書を編纂してなんとかフランスへの留学費用を工面した前田には、静六の早く留学したいという思いを我がことのように理解できたはずだ。
余談だが、後年、静六は前田の恩に応える仕事をしている。
晩年、自然環境保護に尽力した前田は、阿寒湖周辺の絶景に魅入られ、周辺の広大な土地を購入して移り住んだ。静六は前田の遺志を継ぎ、彼がこよなく愛したこの土地を大雪山などとともに国立公園に指定しているのだ。
泉下の前田も、さぞ喜んだに違いない。

(次回は7月30日更新予定です)


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