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【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #29

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永遠の森29

第三章 飛躍のドイツ留学 (13)
一日一ページの執筆

静六は今で言う副業の先駆者であった。
彼は『私の財産告白』の中で、こう語って副業を推奨している。

〈サラリーマンが金を作るには単なる消費面の節約といった消極策ばかりでは充分ではない。本職に差し支え無い限り、いや本職の足しになり勉強になる事柄を選んで、本職以外のアルバイトに努めることである。(中略)給与よりも投資や副業の収入が多くなれば、経済独立をする事で勤務にもますます励める〉

本業一筋が美徳とされる当時にあっては画期的な発言だし、世の顰蹙(ひんしゅく)を買ったくらいだろうが、最近は多くの企業がむしろ副業を奨励している。
ようやく時代が彼に追いついてきたということだろうか。
もっとも、「凡人は本業に徹すること」とも語っていることを付け加えておく。

そして静六は〝四分の一天引き貯金〟に続く人生計画として、〝一日一ページの執筆〟を自らに課した。三二字詰一四行以上の文章を毎日執筆しようというのである。四〇〇字詰め原稿用紙の約一割増しの分量だ。静六らしく紙は大切にし、たいてい古い原稿の裏とか広告の裏などに書いた。
日記を書こうというのではない。出版原稿として使えるものに限った。まとめて雑誌に発表したり本にするわけだから立派な副業である。それを五〇歳まで続けることを当面の目標とした。
最初はかなり辛かった。一週間旅行すると七ページ分足らなくなるので、あとの一週間は一日に二ページ書いて取り返さねばならない。年末行事で執筆の時間がとれなかった時は、翌年の元旦早々、学校へ出かけていって一〇枚二〇枚の書きだめをやった年もあった。だがやがて慣れて来て、長期旅行をする時はいつも繰り上げ執筆を済ましておくのが習慣になっていく。

ところが四二歳の時、腸チフスにかかって赤十字病院に入院し、三八日もの間、執筆を休まざるをえなくなったことがあった。普通の人なら、これは特殊事情なのだから、また一日一ページずつ書いていくだろう。ところが彼は違っていた。ブランクを取り戻すため、なんと退院の翌日から一日三ページずつ書きはじめたのだ。
するといつしか、一日一ページではなく三ページ書くのが習いとなっていった。〝禍転じて福となす〟というのが、彼ほど得意な人もいないのではないか。

ネタを集めないと毎日は書けない。執筆継続のための秘密兵器が手帳であった。
彼は縦四寸九分(一四・八センチ)、横二寸八分(八・五センチ)の手帳を肌身離さず持ち歩いていた。ルーズ・リーフ式になっていて全体を八項目に分けている。
一番目は修養(自分の欠点や金言などを記入)、二番目は残用(やり残した仕事)、三番目はカレンダー(半年ぐらい先までの予定が書かれていて、当日分を毎朝チェックする)、四番目が当用(なすべき用事を記入して済めば消す。一日でできない場合、残用欄に移記しておく)、五番目が日記、六番目が資料(新聞雑誌や本を読んだり人の話を聞いたりする際、重要点を記入)、七番目が家計(お金を使う都度記入し、月末に家計簿に移記する)、八番目が住所録(これとは別にカード式のアドレスブックがあり、そこに記入する迄のメモ)。
常に一センチほどの厚さに保ち、適宜差し替えていく。
手帳の活用は、若い頃のエキス勉強法の延長線上にあると言っていいだろう。この上ない勉強の手助けとなり、三七〇冊を超える著作も数千回に及ぶ講演も、皆この小さな手帳から生まれていった。
彼は記録の取り方が徹底していた。
ベルトやステッキに、なんとメモリをつけていたのだ。
資産家になってからは世界各地を旅行したが、そんな時、行く先々で興味を引くものがあると片っ端から寸法を測って手帳に書き留めた。座り心地のいいホテルの椅子などにも及んだという。
こうした習慣は、それらを再現する際にこの上なく役立った。やがて彼が林学の壁を越え、様々な問題でひっぱりだこになる一因を作っていく。

彼は自分の知識を秘匿しなかった。
留学から帰った半年後、早くも『大日本山林会報告』(明治二五年(一八九二)一一月号)に「如是我聞錄」というドイツ留学の体験記を寄せている。
自信に満ちあふれていることもあって、情報の出し惜しみをしなかった。知識量が少ないとすぐネタが尽きるが、静六の場合、絶えず新しい情報をインプットし続けているので、発信し続けることが出来た。
そして権威にこだわらなかった。
明治三〇年(一八九七)には『もりそん探檢談』というオーストラリアの冒険家についての本も出している。通俗本を出せば学者としての権威に傷がつくなどという考えは毫(ごう)もなかった。後年、児童向けの本も書いている。
教え子である増田の雑誌『実業之日本』によく寄稿したが、寄稿先を一ヵ所に限定していたわけではない。『雄弁』『キング』といった大日本雄弁会講談社(現在の講談社)の雑誌にもよく執筆している。
面白い話がある。彼は子どもが生まれると決まって一冊の本を世に出した。それは本の印税を養育費にあてるためだったという。印税は臨時収入だから、一旦は全額貯金に回ったのだろうが…。

積もり積もって、生涯に三七六冊に及ぶ著書を残した。
その内訳は教養書五三冊、造林学書三〇冊、一般林学書二八冊、造園関係書一二六冊、全集または叢書の中の分三五冊、その他の著書一〇四冊(武田正三著『本多静六伝』)。著書を積み上げて一緒に写っている有名な写真があるが、彼の身長の高さに積んでまだあまり、横に椅子をもってきてその上にも積んでいる。実に誇らしげだ。それはまさに二五歳から続けた〝一日一ページの執筆〟の成果だった。

彼は人生のすべてに関し、効率的で経済的なものを愛した。
着るものに関しても、もちろんそうだ。その象徴が、彼の代名詞ともなった〝詰襟〟だった。
そもそもはターラント森林学校時代の制服を持ち帰ったことに始まる。詰襟はワイシャツもネクタイも要らないから便利で経済的だ。気に入った彼は同じものを夏冬二着こしらえ、外出用の常服にあてた。
コートは着ず、寒くなると中に着込む。彼は冬の下着というものを持っていない。夏の下着を何枚も中に重ね着して十二単(ひとえ)としゃれこんだ。
破れればつぎはぎをする。静六のつぎはぎものを、家族は〝山陽道シャツ〟とか〝山陽道ズボン〟と呼んだ。東海道は五三次であるが、それを通り越して 一〇〇ツギ二〇〇ツギもしているからだ。

睡眠時間に関しても効率的だった。
学生時代は三時間睡眠で通したが、その後は四時間睡眠を基本とした。
「そもそも睡眠の量は、眠る長さと深さとを掛け合わせたものだ。深く眠るためには十分疲れるまで働き、真に安心して横になることである。そうするとすぐ深い眠りに入り四時間も熟睡すれば自然に目が覚める」
彼はいつでもどこでも寝られる人だった。椅子の上や草原でも寝られる。
だから昼寝が得意だった。学校で三時間ほど講義して疲れると、次の講義までの合間に一五分寝る。
すごいのは決めた時間で起きることだ。彼に言わせれば〝心理学の自己暗示〟ということになるようだが、何分寝れば必ず起きるのだと自分に言い聞かせて寝るとその通りに目が覚めるのだそうだ。
ちょっと凡人にはまねできそうもない。

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