【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #01
こんにちは。ひふみラボ編集部です。
今回より、作家・北康利先生による、林学者で投資家の本多静六の投資哲学を現代に伝える連載小説をひふみラボnoteでスタートします!
こちらは毎週金曜日に更新していく予定です。
第1章の章末からは、レオスの運用メンバーが実際に小説を読んだ感想もご紹介していきます!
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プロローグ 永遠の森 (1)
日本で一番参拝客を集める明治神宮。コロナ前は外国からの観光客を含め年間約一千万人もの人が参拝に訪れ、うち初詣が三〇〇万人を占める。
高層ビルに囲まれた都心にあるとは思えない鬱蒼(うっそう)とした森の中に鎮座(ちんざ)するが、その歴史は意外と浅く、明治天皇・昭憲皇太后(しょうけんこうたいごう)をお祀りするため、大正九年(一九二〇)に建てられたものだ。
面積約七〇ヘクタール(東京ドーム約十五個分)もの広さを持つこの森が、大正時代につくられた人工森であることを知った時の驚きは今も忘れられない。目指したのは、一〇〇年、二〇〇年、人の手を介さずとも永遠に存続する森作り。前代未聞の試みだった。
今でも参道や歩道以外は立ち入り禁止。下草を刈るといった世話さえもされず、危険な枝を落としたりする以外は、ほとんどそのままの姿にされている。
江戸時代は彦根藩の下屋敷で、維新後、代々木御用地となり、一部は練兵場となっていた。場所的には武蔵野の一部だが、造営当時、林地は五分の一ほどしかなく、その他は農地や草地であったという。
森の木の大部分は全国の篤志家からの献木だが、木の種類は慎重に選定された。大気汚染を予見し、それに強い樹木も植林されている。
こうして神ならぬ身で永遠の森を再現して見せた男。それが本多静六(ほんだせいろく)だった。
反対意見がなかったわけではない。異議を唱えたのが、時の首相大隈重信である。本多とは昵懇(じっこん)の間柄だったが、それでも敢えて苦言を呈した。
「本多博士、明治神宮は明治天皇をお祀りする神聖な社(やしろ)だ。こうしたところは例外なく、伊勢神宮や日光東照宮のように荘厳な杉の木に囲まれて鎮座している。なのに君は、よりによって藪(やぶ)を作ろうというのかね?」
大隈の言い分もわからぬではない。いやむしろ、彼の意見の方が多数派だったに違いないのだ。
だが本多は、時の首相の苦言にも耳を貸さなかった。
そもそも東京に杉の森など無理なのだ。〝谷スギ、尾根マツ、中ヒノキ〟という言葉があるように、杉は谷沿いなど水分を多く含む肥沃な土壌を好み、保水力に乏しい関東ローム層にはあわない。
「土地には適合した樹木があります。この地に杉は育たないのです」
と答えると、大隈はこう言って反論してきた。
「清正井(きよまさのいど)の近くには、立派な杉の木が生えているではないか」
今ではパワースポットとして有名になっている清正井だが、この近くには確かに杉の木が生えている。さすが大隈、するどい指摘だ。
それでも本多は負けていない。
他の土地ですくすくと育った杉の木の断面と、清正井の近くの杉の木の枝の年輪とを比較して見せ、
「あの杉はこの通り生育が遅いのです。それはやはり土壌が杉の木に合わないためで、杉の木を植えても長くはもちません」
さしもの大隈も、これにはぐうの音も出ず。結局、本多案が採用される運びとなった。
それでも一応大隈の意をくみ、神宮の森の中で杉に最も適した場所である流れに沿った低地に何本か植えておいたが、それでも今は枯死したものが多く、もし神宮の森全体を杉林にしてあったなら悲惨なことになっていたに違いない。
今、神宮の森は、本多静六が考えていた自然植生に限りなく近い段階まで来ている。
造営時に最大の巨木だったムクノキはすでに枯死したが、幹は立ち枯れたまま放置されている。そこで空いた空間に下草が繁茂し、数本の若い木が競争するようにして葉を伸ばしている。
野鳥のオアシスにもなり、観察できる鳥の種類は年間五〇種を超え、オオタカの生息地にもなっている。
人間が一生かけて目指すべきなのは、おそらく豊かな〝森〟なのだろう。巨大なビルではない。〝森〟でなければならない。森は永遠の時間を刻み、自分が生きるだけではなく、多くの生き物を育む。それはまさに現代社会でよく耳にするサステナビリティ(持続可能性)の理想形である。
人名録的に言えば、本多静六は東大農学部教授を務めた林学者ということになる。しかし、多面的活躍をなした彼の人生は鬱蒼たる森のごとくに豊穣であり、とてもこの肩書きだけで彼のすべてを語ることは出来ない。
本多の事績は専門の造林学にとどまらず、さまざまな分野にわたっている。
そもそも彼がミュンヘン大学で取得した学位が経済学博士であったことでもわかるように、明治日本が林学の手本としたドイツでは、山林政策は国家経済学に属していた。まさに山林経営は産業であるとともに国土整備であり、ことに近代化の緒に就いたばかりの明治国家にとっては国造りそのものだった。
そういう意味では、彼の活躍した時代が明治の後半から大正期にかけてであったのは幸運であった。都市計画というものが本格的に進行しはじめたのは、明治初期ではなく、むしろ国富に余裕の出来た大正期だったからである。
水源林や鉄道林の整備、大学演習林の設置、明治神宮や日比谷公園をはじめ、国立公園を含む全国の公園の設計、荒廃した六甲山への植林、由布院など温泉地の開発等、彼が手がけた仕事は多岐にわたる。
そもそも木を植え森にするなどということは一代ではなしえない。通常、人はそう考える。自分たちの持ち時間は短く、成し得たい夢は大きすぎる。ところが本多はそうしたことなど意に介さず、種を蒔き続けた。そして、その種子は次々に見事な大輪の花を咲かせていく。まるでおとぎ話の中の花咲か爺のように。
それが彼の生前であるか死後であるかは問わなかった。彼の仕事は、常に次世代を担う若者たちのためにあったのである。
著者プロフィール
北 康利(きた やすとし)
昭和35年12月24日愛知県名古屋市生まれ、東京大学法学部卒業後、富士銀行入行。資産証券化の専門家として富士証券投資戦略部長、みずほ証券財務開発部長等を歴任。平成20年6月末でみずほ証券退職。本格的に作家活動に入る。〝100年経営の会〟顧問。日本将棋連盟アドバイザー。
著書に『白洲次郎 占領を背負った男』(第14回山本七平賞受賞)、『福沢諭吉 国を支えて国を頼らず』、『吉田茂 ポピュリズムに背を向けて』、『佐治敬三と開高健 最強のふたり』(以上講談社) 、『陰徳を積む 銀行王・安田善次郎伝』(新潮社)、『松下幸之助 経営の神様とよばれた男』(PHP研究所)、『西郷隆盛 命もいらず、名もいらず』(WAC)、『胆斗の人 太田垣士郎 黒四(クロヨン)で龍になった男』(文藝春秋)、『思い邪なし 京セラ創業者稲盛和夫』(毎日新聞出版)、『乃公出でずんば 渋沢栄一伝』(KADOKAWA)などがある。
北康利先生より
「北さん、本多静六はいいですよ。是非書いてほしいなあ」
レオス・キャピタルワークスの藤野英人さんからそんな話を聞いたのは、かれこれ2年ほど前になるだろうか。実際、本多静六という人物は、藤野さんが日頃口にしていることを見事に体現した人物だ。
藤野さんは、最近29刷が決まった『投資家が「お金」よりも大切にしていること』の中で、日本人は「(間違って解釈された)清貧の思想」を大事にしているが、これからは「清(せい)豊(ほう)の思想」こそ考えていかねばならないと説いておられる。
そして本多静六もまた、『私の財産告白』の中でこう述べているのだ。
――世の中には、往々間違った考えにとらわれて、この人生に最も大切な金を頭から否定してかかる手合いがある。
本多がその晩年、自らの蓄財術を公開した時、世の人々は驚くとともに顔をしかめた。東京帝国大学の教授が、この種の本を出すことなど考えられなかったからだ。この規格外れの行動こそ、彼が自分の生き方にいかに自信を持っていたかの証拠であろう。
社会的地位の高い人間ほど、発言や行動に慎重だ。コロナ禍でこの国が大きく揺れていたとき、東大や京大の教授がほとんど発言していなかったことは記憶に新しい。ささいなことでも社会的地位は容易に失われる。もうこれ以上は望めない場所にいる人間が冒険するのは危険でしかない。
しかし本多静六は躊躇しなかった。
〝4分の1天引き貯金〟〝1日1ページの執筆〟〝職業を道楽にする〟等々、彼の会得した人生を豊かに生きるためのノウハウが、社会の継続発展(今で言うところのサステナビリテティ)に不可欠だと確信したからである。きっと本多は、彼の作った神宮の森のように、この国を〝永遠の森〟にしたかったのだろう。
だが本多の努力にもかかわらず、日本人の意識はそう簡単には変わらなかった。我々は彼の遺志を受け継ぎ、現代を生きる人々に訴え続けねばならない。
本多静六の人生をたどる試みが、コロナで下を向く日本人に、明るい未来を考える端緒になることを祈念しつつ、連載を開始することとしたい。
令和3年4月1日 北 康利