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【北康利連載】二宮尊徳~世界に誇るべき偉人の生涯~ #30

二宮尊徳はどんな人か。かう聞かれて、尊徳のことをまるで知らない人が日本人にあったら、日本人の恥だと思ふ。それ以上、世界の人が二宮尊徳の名をまだ十分に知らないのは、我らの恥だと思ふ。

武者小路実篤

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第三〇回 君臣具わって一騎と成る

小田原に召還された豊田のその後だが、赴任前、彼に金次郎の仕法を邪魔しろと言っていた上司たちは手のひらを返したように知らぬふりを決め込み、豊田は案に相違して冷遇された。
サラリーマンが上司からハシゴを外された時ほど惨めなものはない。
(私が愚かだった……)
憑(つ)き物が落ちたように目が覚めた。
そんな天保元(一八三〇)年、失意の中にいる豊田のところに、なんと金次郎から桜町でとれた大豆や小豆、ゴマなどが届いた。これには驚いた。
(なんという懐の深さであろう。あれだけ仕法の邪魔をした私に、いなくなった後も贈り物をするとは……)
豊田は贈り物を前にむせび泣いた。もう彼の心には金次郎に対する敬意しかなかった。
彼は行動に出た。鵜沢作右衛門らに、金次郎と再び働きたい旨を懇願したのだ。
天保二(一八三一)年、 念願かない桜町勤番となると、金次郎から報徳金の世話人という重要な役目を任された。金次郎のことを先生と呼び、江戸や小田原への随行も率先するなど、懸命に補佐した。
実際、豊田は第二次桜町仕法の中心となって頑張ってくれ、天保七年には実収三〇〇〇石にまで増やすことができ、再建を成し遂げることができた。
豊田は金次郎の死去した翌年(安政四年)の一月、あとを追うようにして六四歳の若さで死去している。殉死と言っていいのかもしれない。人間は変われるものなのである。
今、豊田は小田原市浜町の蓮上院に静かに眠っている。

藩主から「以徳報徳」の言葉を賜った年の翌年(天保三(一八三二)年)の一一月あたりから、〝二宮金治郎の思想爆発〟と呼ばれる現象が起こる。
成田参籠の頃の彼が心神耗弱状態に陥っていたとするならば、第一次桜町仕法を完了させ、藩主直々にお褒めの言葉を頂いてからの金次郎は、一種の躁状態と言ってもいい精神状態に陥っていた。
小田原藩が優秀な藩士を次々に赴任させ、多額の支援をしても再興できなかった桜町領の再建を成し遂げたのだ。不可能といわれた事業を可能にしたことによる万能感が彼の身体を包んでいたとしても不思議ではない。

彼は成田参籠で悟った「一円相(一円観)」をもとに、さらに思考を深めていった。
天保三(一八三二)年の日記には、「天地ことごとく元は一つ」とか「陰陽ことごとく元は一つ」「男女ことごとく元は一つ」「貧福ことごとく元は一つ」といった言葉が漢文で記され、報徳思想のバックボーンとなる「一円相」は「一円一元相」に昇華されていったことが窺える。
そして天保三年正月の日記には次のように記している。

〈男女和して一心と成る、春秋具(そな)わって一年と成る、寒暑具わって一気と成る、君臣具わって一騎と成る、昼夜具わって一日と成る、根枝(こんし)具わって一木と成る〉

『二宮尊徳』大藤修著

中でも「君臣具わって一騎と成る」という言葉は重要である。
金次郎は為政者に対する敬意を説いたが、為政者にも領民に対する敬意を説いた。報徳仕法が為政者の覚悟なしにはなり立たないものだったからである。

金次郎は晩年、報徳仕法の真髄について次のように解説している。

〈わが法は上から下に働きかける道である。天下においては天子・将軍、一国においては大名・家老、一郡ならば郡代、一村ならば名主、一家では主人の行うべき道である。
これを馬方が馬を飼い、畑作りがなすびを作るのにたとえよう。馬方が痩せ馬を責め立てて、重荷を負ったら豆を食わせてやろうと言って、大声で馬をしかりつけても何の役にも立ちはしない。それよりか、半纏(はんてん)一枚を質に入れて、大豆を買って食わせてやれば、馬はきっと重荷を負えるようになる。やせこけて重荷が負えない時に豆を与えるのは、はなはだ無駄のように見える。けれども一度豆を与えてだめならば二度与え、二度与えてまだだめならば三度与える。三度も豆をやれば、馬の力は必ず回復する。馬の力が回復すれば、重荷を負えるようになる。重荷が負えるようになれば、馬方は駄賃がとれて、父母妻子を養うに事欠かなくなる。これは、ほかでもない、前に半纏一枚質に入れて豆を食わせた結果である。畑作りがなすびを作る場合もこれと同様で、なすび畑にむかって、たくさん実がなったら肥しをやろうと言って百方責め立てても、何にもならない。それより、休み時間もよく働いて肥しをやれば、なすびはきっと沢山なるのだ〉

『二宮先生語録』斎藤高行原著・佐々井典比古訳注

彼の高弟福住正兄は、報徳思想を「道徳経済一元論」と表現しているが、それを後に「道徳経済合一説」という言葉で世に広めたのが、「論語と算盤」で知られる渋沢栄一だ。
渋沢は二宮尊徳の大の信奉者であった。渋沢の思想が金次郎に似るのは当然のことであった。

『近世名士写真』其2,近世名士写真頒布会,昭10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3514947 (参照 2024-10-22)

天保四(一八三三)年の日記はそのほとんどが思索についての記述であり、天保五(一八三四)年秋、金次郎はこうした思想爆発による成果を、『三才報徳金毛録』にまとめた。
桜町での処女作である。『三才報徳金毛録』の「三才」とは天地人の三つの働きを意味し、「金毛」は金色の獣毛のように貴重であるという意味と考えられている。
金次郎はこの年、徒士(かち)格に昇進している。徒士とは戦において馬への騎乗を許されない下級武士である。四七歳になっていた。

  • 本連載は会員制雑誌である月刊『致知』に掲載されている連載を、致知出版社様のご厚意で一ヵ月遅れで転載させていただいております。

  • 次回は11月1日更新予定です。