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【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #46

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永遠の森46

【日比谷公園】

第四章 緑の力で国を支える (16)
日比谷公園(前編)

日本の庭園の歴史は古い。
時の権力者の邸宅には立派な庭園が造られ、飛鳥時代にすでに噴水が作られていたことも知られている。江戸時代には大名たちが競って優雅な回遊式庭園を作庭した。水戸の偕楽園や仙台の桜の馬場のように、庶民に開放された庭園もなくはなかったが、基本的には大名や貴族たちが楽しむ場であった。
はじめて〝公園〟という言葉が使われるようになったのは、明治六年(一八七三)一月一五日に公布された太政官布達一六号によってである。北は山形県酒田市の日和山公園、南は大分県臼杵市の臼城公園と臼城西公園、東京では上野、浅草、深川、飛鳥山、芝に公認のいわゆる太政官公園が設けられ、大衆に開放された。
そして明治三六年(一九〇三)、わが国の顔として、東京の中心に設けられたのが都立日比谷公園であった。
その設計者こそ、本多静六だったのである。

かつてこの場所には長州藩や佐賀藩などの大名屋敷が立ち並んでいたが、明治に入ってそのほとんどが更地とされ、錬兵場として使用されていた。ところが皇居近くに軍隊が駐留していることに不安を抱かせる事件が起き、政府は練兵場を青山に移転。跡地は東京市が管理することになった。
使わないと雑草が生えてくる。荒れるに任せる跡地を前に、土木学の権威である古市公威(ふるいちこうい)(帝国大学工科大学初代学長)が公園化を提案する。
そこでまず日本園芸会会長の花房義質(はなぶさよしもと)(農商務次官、宮内次官、枢密顧問官、子爵)が任せて欲しいと申し出たが、明治二六年(一八九三)一〇月に提案された花房案は採用されなかった。
明治二七年(一八九四)には六月に宮内省造園技師の小平義親(こだいらよしちか)(日本園芸会乙案)、九月に〝博物館の父〟と呼ばれる田中芳男(たなかよしお)男爵(日本園芸会丙案)から、それぞれ新しいプランが出された。共通していたのは日本庭園のほか、馬場や運動場、植物園が盛り込まれていたことであったが、日清戦争の混乱で審査が長引く間に結局両方とも不採用。
明治三一年(一八九八)一一月にはわが国における造園の第一人者であった長岡安平(やすへい)が偕楽園や兼六園を参考に、真ん中に芝生を配して周囲を梅林、山桜、楓林などで囲み、四季折々に楽しめるプランを出したがこれも不採用となる。

その後も不採用が続いたが、それには理由があった。
すぐ近くに鹿鳴館や帝国ホテルがあることから、この公園が日本の顔になることは明らか。そのためみな慎重にならざるを得なかったのだ。
検討していく中で、どちらかと言えば洋風にしようという方向性は出たものの、審査する側も〝洋風公園〟のイメージを誰も持ち合わせていないという信じられない悲喜劇が展開されていく。
ここで辰野金吾東京帝国大学工科大学長が指名された。日銀本店、東京駅を設計した建築学の重鎮である。これで決まりだろうと誰もが思った。
ところが明治三二年(一八九九)八月に提出された辰野案も結局は採用されなかった。今に残る設計図を見ると、辰野の好きなシンメトリー(左右対称)はいいが、幾何学的で味気ない。採用されなかったのもわかる気がする。
業を煮やしたのが、東京市参事会議長の星亨(ほしとおる)である。
元衆議院議長で第四次伊藤内閣では逓信大臣を務めた政界の大物だ。市長以上に隠然たる勢力を誇示し、押し出しの強さから〝押し通る〟の異名をとっていた。
「こんなことなら、公園用地を陸軍に帰してしまえ!」
星は担当者を一喝した。
ここで急遽設計を依頼されたのが本多静六であった。実に一一案が出されては不採用を繰り返したあげくでの指名であった。

公園の設計は静六の専門外だ。彼の指名は偶然が重なってのことだった。
当時は奥多摩水源林調査の東京府嘱託をしていたから、東京市庁にも時折出入りすることがあった。そしてたまたま、市の顧問になっていた辰野金吾博士の部屋を訪ねたのだ。その時、博士と日比谷公園の話になり、少しばかり意見を述べた。
そもそも静六は、どんな知識でも例の手帳に書きながら吸収していくのを日課としている。そのため、あらゆることに精通していた。まして公園には木を植える。林学と縁のない世界ではないだけに、欧米視察の際には公園設計書を買い求めるなど、かねてより情報収集を心がけていたのだ。
辰野は目を丸くした。
「君はそんなに公園について知っているのか。私は建築のことならともかく公園の設計は初めてだったのだ。市会は新様式の洋風公園を作りたいと言っている。君一つやってくれんか?」
そう言うと、すぐに設計の元になる付近の地形図を手渡した。いや、押しつけてきた。
兄と同じ名前を持つ辰野金吾という人物は、斯界の権威でありながら実に謙虚で、
――俺は頭が良くない。だから人が一する時は四倍してきた
というのが口癖であった。
そんな人柄だからこそ、自分の案をごり押しせず、静六に道を譲ったのだろう。実はこのことが図らずも、公園設計を建築家よりも林学者が担うようになる歴史的なバトンタッチとなるのである。

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