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【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #07

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永遠の森7

第一章 勉強嫌いのガキ大将 (5)

島邨泰(しまむらやすし)と米搗(つ)き勉強

明治一三年(一八八〇)、満一四歳でようやく念願の上京が許された静六についてである。
上京すると言ってもまだ若い、頼る人がいなければ路頭に迷ってしまう。かつて兄金吾が教えを受けていた遷喬館元館長の島邨泰を頼ろうということになったのだが、静六だけで行かせるわけにもいかない。
そこで母やそは、実家の兄金子茂右衛門に相談にのってもらうことにした。
やその実家は葛飾郡上吉羽村(現在の埼玉県幸手市大字権現堂)の名主を務め、代々茂右衛門を名乗る素封家で、彼女はその長女だった。家代々の古文書類は「金子家文書」として幸手市の指定文化財となっている。
余談だが、権現堂には隠れキリシタンの史跡であるマリア地蔵が残されており、ひょっとしたら、やそもその影響を受けていたのではないかと想像を膨らませたりもする。
話を戻そう。
伯父の茂右衛門は妹からの頼みに、
「それなら、わしが連れて行ってやろう」
と胸を叩き、一緒に上京してくれることとなった。
この時、二歳下の茂樹という男の子も同行している。自伝では静六の〝甥〟と書かれているが、金吾の子ではない。姉の子なのかもしれないが、金子家のいとこの子を指す従甥を甥と略称した可能性もあるのではないかと筆者は考えている。
ともあれ、彼ら二人は農閑期の間だけ、島邨のところへ世話になることになった。いわゆる書生である。

島邨はその頃、大蔵省に出仕し、高官にのぼっていた。
彼の詳細な経歴はわかっていないが、島邨の著書『女教(じょきょう) 朝鏡(あさかがみ)』(明治八年発刊の女性向け教養本)に岩槻藩元藩主大岡忠貫(ただつら)が推薦文を寄せており〝わが旧邑(きゅうゆう)の生まれなり〟と書いていることや、島邨邸に岩槻藩の元家老の家族がしばらく滞在していたことなどから、まず間違いなく元岩槻藩士だと思われる。
大蔵省を牛耳っていたのは、あの渋沢栄一だ。同郷である渋沢の引きがあったのではないかと推測したが、渋沢は明治六年(一八七三)五月には下野している。また渋沢栄一関連資料に島邨の名前が出てこないことから、おそらく別ルートで大蔵省に出仕したものと思われる。
島邨は当初、農業啓蒙家として活躍している。明治六年に内務省が設置されるまで農業行政は大蔵省の管轄であり、なんら不思議はない。
まず島邨が行ったのは、『勧農新暦』(明治六年)、『新暦訓蒙(くんもう)』(同年)などの啓蒙書を発刊し、明治六年一月一日から施行された太陽暦に農業従事者を慣れさせることであった。これは現代人の想像を絶する困難な作業で、あの福沢諭吉も太陽暦利用促進のための啓発本を出している。
英語にも堪能であったようで、大蔵省の御雇外国人で造幣寮を指導していたイギリス人技術者キンドルの『造幣寮首長年報』(明治五年)を翻訳。台湾出兵の年(同七年)には、英国で出版されていた台湾関連書籍を抄訳して『台湾風土記』と銘打って緊急出版している。
行動力もあった。島邨の発案により、明治八年(一八七五)五月、開農義会という農業結社が設立されている。
この団体の面白いところは、農業に関係している大蔵省や内務省の役人が多く集って活発に議論を交わしていることだ。現代にこそ欲しい発想だと言えるだろう。会報として『開農雑報』が創刊されると積極的に投稿。この結社の幹事として中核的役割を果たした。
このように、島邨が明治日本の農政に大きな役割を果たした人物であることを考えれば、静六が書生となった時から、彼の前には農政の一分野である林政へ進む見えないレールが敷かれていたのかもしれない。

『官員録』で確認すると、明治八年に大蔵省九等属であった島邨は、明治一〇年には一気に四等属へと昇格。明治一三年には三等属になっていることが確認できる。静六は自伝の中で〝二等属であった〟と記しているから、その後、一階級昇格したということなのかもしれない。
二等属は現在の局長と課長の中間くらいの役職である。当時は官僚の数が少なく政治家の役割を兼ねていたから、社会的地位も待遇も今とは比較にならないほど高い。屋敷もご多分に漏れず、立派な長屋門のある旧大名屋敷であった。
彼の著作の奥書を見ると、住所は東京府東京市四谷区四谷仲町一丁目七番地(現在の新宿区四谷一丁目)となっている。現在の丸ノ内線四ツ谷駅の目の前で、隣が学習院という好立地だ。
家が広すぎるため母屋の半分を貸家にし、泉水や築山のある二〇〇坪ほどの日本庭園のほかに二反(約二〇〇〇平米)の空き地があり、そちらは畑にしていた。それはまさに、静六が憧れた明治政府の役人の優雅な生活そのものであった。
ずっと夢見ていた上京を果たし、目の前に具体的目標がある。静六はやる気全開だ。しゃかりきになって勉強しはじめた。
昼間は英語を四谷見附内にあった伐柯(ばっか)塾で学び、夜は島邨から漢学を教わった。
伐柯塾の英語の先生は老婦人だったと自伝に書いているから、おそらく外国人女性宣教師だったのではあるまいか。
静六の期待通り、東京は知的刺激満載だったが、一方で書生の仕事もこなさねばならない。
朝早く起きると雨戸を開け、障子や戸にはたきをかけて座敷を掃除し、縁側の雑巾がけをする。冬は手がヒビだらけになり血さえ出た。座敷の掃除が済むと、次に庭や玄関前や門の内外まで掃くのだが、広い庭だけに秋の落葉の頃は大変。野菜畑で小松菜やナスなどの野菜を育てるのも静六たちの仕事であった。
そうした雑用と塾での外出以外の時間は、あてがわれていた玄関の日当たりのいい三畳の部屋で茂樹と古机を並べて勉強した。
だが来客があると片付けて取次ぎ、客間に通して茶菓を出す。食事になることもあり、そんな場合は給仕もし、酒の酌もした。
睡眠時間は四、五時間しかなかったが、若いから体力には自信がある。不満など一切なく、充実感でいっぱいであった。

東京での勉強は農閑期だけという当初の約束通り、五月初には家に帰ってきたが、すっかり勉強の虫になっている静六は勉強したくてたまらない。
そこで祖父友右衛門に頼んで仕事量をあらかじめ決めてもらい、余った時間は勉強時間として認めてもらうようにした。
米搗きは三斗八升一臼(約三二リットル)、田の草取りは日に七畝、畑うない(関東の方言で耕すの意)は六畝(うね)。
米搗きとは、玄米から糠(ぬか)を取り除く精米作業である。玄米を臼に入れて杵で搗くのだが、折原家の場合、踏臼(ふみうす)とか唐臼(からうす)(中国伝来であるため)と呼ばれる、てこの原理を応用した足踏み式の機械を使った。
櫓(やぐら)と呼ばれる鳥居型の指示棒に手を置き、シーソーのようになっている柄の部分を足で踏むと杵先が上にあがり、力を抜くと杵先が落ちて臼の中の玄米が搗ける仕組みだ。あとは、これをひたすら繰り返していく。
当時、一人役(いちにんやく)という、成人男性が一日にする仕事の目安があった。それによると米搗きなら一石(一〇斗)、畑うないなら五畝が標準だ。そういう意味では静六が任されていたのは大変な仕事量だった。それでも静六は勉強したさに必死になって働いた。
村人たちはそれを見て、
「あの暴れん坊の静坊さんがえらく変わったものだ」
と感心したという。
だが、それだけ働くと疲れきって勉強にならない。そこで仕事と勉強をうまく両立する方法を考えた。草取りや畑うないの仕事をなくしてもらうかわりに、得意の米搗きの仕事量を増やし、これに専念させてもらうことであった。
それには狙いがあった。米を搗きながら本を読むようにしたのだ。
身体が慣れてくると米もうまく搗けるようになり、友右衛門から、
「米搗きは静六に限る」
とのお墨付きをもらえるまでになった。
こうして米をつきながらリズムに合わせ、『文章軌範』(中国で科挙向けに作られた模範文例集)を片っ端から暗記していった。そして暗記した内容を、夜学の先生のところで講釈してもらった。
現代人なら思うだろう。そこまで漢籍ばかり勉強して何になるのだと。
しかし、幕末に来航したアメリカ外交団との交渉を昌平坂学問所頭取の林大学頭が務め、見事な交渉ぶりを示したのを見ても、中国の古典の中には人間の生きるための叡智が凝縮されている。漢籍は当時のリベラルアーツだったのだ。
ともあれ静六は、半年は東京で書生をやり半年は河原井村で米搗きをやりながら、満一四歳からの三年あまり、秀才たちが旧制中学に通って勉強しているその時代を、変則的な勉強方法で過ごすこととなった。

静六も思春期だから女性に興味がないはずはない。彼は自伝の中で、この当時の甘酸っぱい思い出について触れている。
先生の恩人で岩槻藩の元家老の久我家が客分としてしばらく同居したことがあった。
陽気なおばあさんと、朗らかな奥さんと一人娘の満五歳のチーちゃん。そのリンゴのような赤い丸顔をした元気な女の子がえらく静六になついていた。
「チー坊、そんなに静さんが好きなら、静さんのお嫁さんになったらいいだろう」
おばあさんがそんなことを言うもので、静六もなんだか気になってきた。
三ヵ月ほどして大阪に出張していたご主人が戻ってきて一家はほかに引っ越したのでそれきりになったが、しばらくは寂しくてならず、机にぼーっと頬杖をついている時間が長くなった。
そのうち島邨邸におてるという使用人が来た。一三歳の若さだったがなかなかの美人だ。先生の家にはもう一人お滝というひょうきんな女中がいて 寄ると触ると静六たちをからかった。
「二人並んでご覧、背格好も似合っておひなさんのようだ」
すると、またも静六は浮ついた気持ちになり、密かに胸をときめかせるようになっていた。
そのうち、それを耳にした島邨の奥さんから呼ばれ、
「あなたは将来出世なさって、希望通りのどんなお嬢さんでもめとることのできる方です。今が大切な修行時代ですから、一生を誤ることのないよう注意しなさい。わたしもあなたを取り締まる責任がありますから、今後は気をつけてください」
と厳しく注意された。
おてるさんは奥さんの弟の開業医の家にやられ、代わりに先方にいた鬼瓦の如き面相の女中が新たに来ることになり、静六はひどくがっかりしたが、それからは夢から醒めたようになって勉強に打ち込んだ。

そして明治一六年(一八八三)一二月のこと、島邨先生が静六にこう言ってきた。
「昨年新たにできた官立学校で東京山林学校というのがある。新時代の専門学を教えるところだし、官立で安い学校だから、お前一つ受験してみないか」
この一言が、静六の人生を決定づけるのである。

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