【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #53
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【造園研究科・林学博士・東大名誉教授 上原敬二】
第四章 緑の力で国を支える (23)
「明治神宮御境内林苑計画」策定
仕事の早い彼は神社奉祀調査会の内命を受けた時点ですでに代々木御料地の図面を手に入れており、それを前にひたすら構想を練っていた。
不可能を可能にする作業なのだからもとより大事業になる。本郷はもちろん大車輪の活躍をしてくれるだろうが、人手が足りない。
そこで静六がもう一人目をつけた男がいた。それが上原敬二だった。
上原は東京深川で材木業の家に生まれた。第一高等学校から東京帝国大学農科大学林学科に進学し、抜群の成績で卒業の日を迎えた。
家業を継ぐつもりなど、はなからない。
「研究室に残って研究生活に入りたいと思います」
指導教官であった静六に大学院に進学する旨、報告したが、話を聞いているのかいないのか、静六はまるで上原の力を試すように、明治神宮の植林の問題について意見を求めてきた。
(僕を明治神宮造営に参加させようとしているんだな…)
上原はすぐに勘づいた。
優秀なだけあって、静六の若い頃同様、臆するところがない。
「私は実務がしたいのではなく研究がしたいのです。ご協力は致しかねます」
静六のところへ行って、はっきり断りを入れた。
もうこうなっては隠しだてしても仕方ない。静六は全力で説得しはじめた。
「研究はいつでもできる。しかし神宮の森づくりのような機会は二度とない。千載一遇の絶好機なのだ。この仕事で君は樹木移植法の実地と学理との両方を学ぶことができるだろう。必ずや今後の研究生活に役立つはずだ」
逃げる上原、追う静六。何度もそうしたことが繰り返されたが、相手は一枚も二枚も上である。根負けしたのは上原のほうだった。
一旦入学した大学院を退学し、内務省嘱託として造営に携わることとなった。
大正四年(一九一五)四月、明治神宮創建の実行機関として明治神宮造営局が設置され、土地開発から設計、施工など一連の建設事業に関する総合プロデューサー的な役割を担うこととなった。
調査会からメンバーであった神社設計の第一人者である伊東忠太東京帝大工科大教授や建築史家の関野貞東京帝大工科大学教授が神社設計を担当。神苑担当のリーダーは川瀬と静六である。
造営局総裁に伏見宮貞愛親王を戴き、副総裁、局長、書記官、主事、参与、参事、技師、技手が定められ、各分野のエキスパートが集結した。
時に大正四年の段階で参与の静六四九歳、技師の本郷三八歳、技手の上原二六歳。ほぼ一回りずつ年の離れた三人の師弟による強力チームが結成されたのである。
すでに静六はこの前年、高等官一等の勅任官になっていたが、本郷は技師への任命と同時に高等官六等に任ぜられ、奏任官になることができた。本人はもとより、師の静六としても感無量であった。
静六の神苑に対する考え方を知るものとして、神社合祀制度が敷かれて間もない明治四二年(一九〇九)九月に書かれた著作『社寺風致林論』がある。
ここで静六は、山林そのものを神の依り代とみなす神奈備山(かんなびやま)として、奈良県の大神(おおみわ)神社(奈良県桜井市)の三輪山や埼玉県の金鑚(かなさな)神社(埼玉県児玉郡)の御嶽山(みたけやま)を例にあげ、その神聖さを保つためにはどんな古木や枯木、絡まるツタさえも人の手を加えるべきではないと主張している。
これこそが彼の理想とする、神の依り代としての森林であった。
(粘土層で踏み固められた土地に、一体どうやって木を繁茂させるのか…)
静六は、彼がこれまでに蓄積してきたすべての知見を動員して構想を練った。
そこでモデルにしようと考えたのが、大阪府堺市にある大山古墳(伝仁徳天皇陵)だった。当初は版築(はんちく)で突き固められ、葺石(ふきいし)と埴輪(はにわ)の敷き詰められた墳丘だったはずだが、今では天然林となっている。
長い時間を経て極相状態の林相にまで到達したのだ。この森の形成過程を人工的になぞり、最終的に神宮の森を天然林にすることができれば、一切人の手を加えずとも〝永遠の森〟として存続し続けさせることができる。
静六が大山古墳に着目するきっかけとなったのは、現地を調査した上原の報告書だった。
彼は静六の言葉通りこの神宮の森プロジェクト自体を壮大な実験として捉え、内務省の上司とぶつかりながらも独自の調査や実験を行っていた。大山古墳調査もその一つだった。
余談になるが、上原は後に大学院に復学し、神宮の森建設の成果をまとめて論文として提出。無事林学博士を取得することとなる。
こうして静六は、本郷や上原たちの助けを借りながら試行錯誤を繰り返し、〝神宮の森の設計図〟にあたる「明治神宮御境内林苑計画」を完成させるのである。
「明治神宮御境内林苑計画」は五〇年後、一〇〇年後、一五〇年後の変化を念頭に置いた造林計画であった。
第一段階では在来木や献木の中でも大きいものを中心としつ、痩せた土地に強いマツ類を植栽していく。その間にヒノキ、サワラ、スギ、モミなどの針葉樹を交え、下層に将来の主林木となるカシ、シイ、クスノキなどの常緑広葉樹、最下層に常緑灌木(かんぼく)を植栽する。
第二段階ではマツ類が生育の早いヒノキ、サワラ、スギ、モミなどの針葉樹に次第に圧倒されていく。
第三段階では林冠の最上部を占めていたマツ類がヒノキ、サワラなどに取って代わられて枯れ、数十年後にはヒノキ、サワラなどが最上部を支配するようになり、その一方でカシ、シイ、クスノキなどの常緑広葉樹も順調に育っていく。
第四段階では成長したカシ、シイ、クスノキなどの常緑広葉樹が優位に立ち、支配木となり、これらを中心とした天然林相となる。
「明治神宮御境内林苑計画」には「林苑の創設より最後の林相に至るまで変移の順序」と書かれた予想林相図が付されており、執筆者は本郷だ。謙虚な彼らしく、最後に〝(予想)〟と書かれているのが印象的である。
静六たちの叡智の結晶であるこの「明治神宮御境内林苑計画」は、今も明治神宮の宝物庫に大切に保管されている。
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