【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #55
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【本多静六の協力者となる諸井恒平】
第五章 人生即努力、努力即幸福 (1)
埼玉学生誘掖会
静六は若い頃から、島邨先生のように、自分も郷土の若者たちに手を差し伸べたいと考えていた。
親友の河合は静六同様苦学生であったが、元尾張藩士が中心になって設立した愛知社という育英会から毎月六円の奨学金をもらっていたことは先述した。年に五〇円の仕送りで頑張っていた静六は、年に七二円もらっている河合がうらやましくてならなかったのだ。
埼玉県にも愛知社のような団体を作りたい。それが彼の悲願となった。
まだ静六が学生だった明治二二年(一八八九)、埼玉県出身の在京学生を集め、同郷の後輩たちのための寄宿舎を作って育英資金を創設しようと動きはじめたことがあった。
ちょうどこの年、静六は本多家に婿入りして優雅な生活を謳歌していたが、これまで辛酸をなめてきただけに、苦学している後輩のことをほってはおけなかったのだ。
名称は埼玉学友会とし、会頭には渋沢に就任してもらうつもりだった。だが残念ながら渋沢は積極的とは言えなかった。
静六は最初に上京したとき、二度訪問して二度とも門前払いを食っている。故郷の若者が相手でも、彼はそう易々と胸襟を開いてはくれなかったのだ。
それでも静六は諦めない。
埼玉出身の資産家のところに行って支援をお願いして回った。
その中に生糸や金融で財をなした横浜の豪商平沼専蔵がいた。埼玉県出身者としては渋沢をもしのぐ最大の資産家だ。高額納税者として貴族院議員にもなっていたが、一方で〝強欲非道の高利貸し〟という風評のある人物でもあった。
それでも静六は再三訪問し、寄付を依頼し続けた。最初は好感触でこれは大丈夫だと思っていたのだが、あと一歩のところで翻意され、努力は報われなかった。
結局、埼玉学友会設立は頓挫してしまうのである。
「若造が余計なことをするな」
と散々皮肉られ、悔しい思いをした。
静六は悔しい思いをすればするほど燃える男である。四分の一天引き貯金である程度お金が貯まったのを機に、再び動きはじめるのだ。
日本煉瓦製造取締役である諸井恒平(つねへい)の賛同を得、初代埼玉県会議長の竹井澹如(たんじょ)を通じて渋沢に面会を申し込んだ。
防雪林の件で役に立ったとはいえ、渋沢栄一にとって静六は何ほどの存在でもない。正式に会おうと思ったら、これだけの段階を踏む必要があったということだ。まだまだ渋沢は雲の上の存在であった。
そして明治三三年(一九〇〇)秋のある日、深川福住町の渋沢邸を訪問した。
だがあいにくその日、渋沢は留守であった。明日は在宅していると聞き、翌日出直すことにした。
渋沢は多忙だ。この時間ならいるだろうと思って夜の八時に行ったのだがまだ帰っていない。仕方ないので玄関脇の書生部屋で待ち続け、ようやく一〇時すぎに帰宅してきたと思ったら、そのまま風呂場に直行してしまった。その後もなかなか声がかからない。ようやく一一時過ぎになり、書生がやってきてこう伝えた。
「今日はもう遅いので明朝お越し下さいとのことです」
静六は真っ赤になって激怒した。
「私は駒場の官舎から四里の道をここまで会いに来ているのだ。片道三時間かかる。しかも明日は朝八時から大学で授業がある。さすれば明朝五時前にお会いせねばならない。今から三時間かけて帰っても意味がないから、ここで明日の講義の準備をさせてもらい、明朝五時前にお会いすると言うことでよろしいかな」
静六の剣幕に書生は顔を青くして引っ込んだ。するとしばらくして、どてらを着た渋沢が不機嫌そうな顔をしてようやく現れた。
「君は人の家に来てどうしても帰らないそうだな。けしからんではないか。君の来訪意図は竹井君から聞いて知っておるが、昨今のわが国の経済情勢を考えると容易な話ではないぞ」
「悪いことだとでも言うのですか?」
静六はけんか腰で言い返した。だがそんな挑発に乗る渋沢ではない。
「元来そういうことをやるには、主になってやる人がまず自分で金を出し、その後で人に寄付をお願いするものだ。自分で出さずに寄付を募るなどというのは最初から間違っている」
これまで、この言葉を聞くとほとんどの者が尻尾を巻いて帰っていった。覚悟がないからだ。この時も渋沢は、きっとぐうの音も出まいと思っていた。
ところが、である。彼は本多静六という男を見くびっていたのだ。
待ってましたとばかりに腹巻きから札を取り出し、渋沢の前に置いた。
「この金を会の設立基金として拠出するつもりです」
和気清麻呂が肖像になっている一〇円札が三〇枚、しめて三〇〇円あった。教員の初任給が一〇円程度だったから大金だ。最高額紙幣である藤原鎌足の一〇〇円札などほとんど流通していなかった時代のことである。
静六とて当時の年棒は九〇〇円で、大資産家になる前の話である。虎の子の三〇〇円には違いなかった。それでも彼は銓子と相談して、これだけの金額を寄付すると覚悟を決めてきたのだ。
これには渋沢も驚いた。彼は世情に通じている。この寄付の金額にどれほどの思いが込められているかを悟ったはずだ。もう断わる道理はなくなった。
「では僕にいくら出せというのかね?」
降参した渋沢が恐る恐る尋ねると、静六は間髪入れずこう答えた。
「総額一二万円の資金を集める予定でおりますので、先生には二〇分の一の六〇〇〇円をお願いしたいのです」
「一二万円?」
渋沢は絶句した。
「アメリカならいざ知らず、この国でそんな大金が集まるわけがなかろう」
「ではいくらなら集まるとお見込みですか?」
「せいぜい半分だろう」
これこそ、静六が用意した罠だったのだ。
「それは見込み違いでやむを得ませんが、では半分の六万円と考えて先ほどの半分の三〇〇〇円を出して頂きたい。そしてもし六万円以上集められたときには、さらにあと三〇〇〇円出して頂きたい」
思わず渋沢は静六の顔を穴の空くほど見つめてしまった。これは渋沢が社会福祉事業を立ち上げようとして奉加帳を回す際、しばしば用いる常套手段である。立場が完全に逆転してしまっている。同郷出身のこの三四歳の若き学究に、間違いなく自分と同じ匂いがするものを嗅ぎ取っていた。
「わかった…」
こうして静六は、渋沢栄一という堅城を落としたのだ。この時の喜びを彼は次のように述懐している。
〈天ニデモ飛ビアガル心地ガシテ嬉シカツタ。「ヨシ之レデ出来ル、キツト作ツテ見セルゾ」ト、深夜モ物カハ、喜ビ勇ンデ飛ブヤウニ駒場ヘ帰ツタノデアルガ、途中デハ黎明ヲ告ゲル鶏ノ声ガ盛ニ聞エテ居タ事ヲ記憶スル〉(「本多静六談話筆記」)
協力してくれるとなると、これほど頼りになる人間もいない。埼玉県知事、各郡長とも連携をとり、埼玉県内、京浜地方在住の同県出身者などにも出資、支援を求めた。
静六の親戚である富豪白石家も三〇〇円寄付してくれた。
こうして明治三五年(一九〇二)三月、渋沢と静六、諸井らが発起人となり、埼玉学生誘掖会が設立された。〝誘掖〟とは導き助けるという意味である。初代会頭には渋沢が就任した。
明治三七年(一九〇四)四月、牛込区(現在の新宿区)東榎(ひがしえのき)町に仮寄宿舎を開設。同年一〇月、牛込区砂土原(さどはら)町に第一寄宿舎が竣工。明治四一年(一九〇八)二月には第二寄宿舎が完成した。最盛期には一〇〇名を超す学生が入寮し、三〇〇〇平方メートルの敷地にはテニスコート、武道場などもあった。
夢はようやく実現した。島邨先生からもらった恩を、少しは返せたことに満足した。
その後も静六はしばしば寄宿舎を訪れ、学生と一緒に夕食を食べ、講話をした。
もらった恩は次世代に返す。それが偉人の共通点だ。静六が始めた四分の一天引き貯金は自分の〝貧乏退治〟のためだけでなく、郷土の若者の〝貧乏退治〟のためでもあったのである。
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