【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #42
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【玉山】
第四章 緑の力で国を支える (12)
台湾(日本)最高峰への挑戦
後藤が静六に依頼したのは、台湾の森林資源の調査と林業育成であった。
台湾総督府民政局の役割は台湾の近代化にある。
その点、林業は将来有望な輸出産業であった。東京農林学校の同級生である齊藤音作が、すでに乃木総督の時に初代山林課長として着任していたが、静六にも協力して欲しいというのである。
乃木総督の台湾開発の進捗がはかばかしくなかったから児玉が派遣されてきたのだ。乃木総督の時代に任命された齊藤を後藤は信用していなかった。当然、齊藤は面白くない。彼の書き残したものには、静六に対するやっかみが随所に顔を出してくる。
そういうこととは知らない静六は、ともあれ後藤の依頼に応じて台湾に渡り、明治二九年(一八九六)一一月、早速、森林調査へと向かった。
新しい土地だけに興味津々である。
加えて台湾領有直後から、日本人による台湾探検ブームがはじまっていた。土倉庄三郎の次男である龍治郎なども台湾を縦走し、後に台湾で林業や樟脳(しょうのう)事業をはじめたほか、台北電気を設立し、台湾初の水力発電所を建設している。
そんな中に本多静六も加わっていたわけだ。静六は終生冒険好きであった。
彼が目指したのは、台湾最高峰の玉山(ぎょくざん)への登頂である。
現在、台湾の国立公園にあたる阿里山国家森林遊楽区の中にそびえ立っている玉山は高さ三九五二メートル。亜熱帯に位置するが冬には冠雪する。台湾が日本統治下だった当時、台湾の最高峰であると同時に日本最高峰でもあった。
もっとも、当時は正確な高さはわかっていない。わかっていたのは台湾で最も高い山だということだけであった。
加えて地元民が、
「他国の方が山頂に登頂したことはかつてありません」
と言うのを聞いてどうにも我慢できなくなったのだ。
森林調査をしつつ、日本人最初の登頂者の名誉も手にすることができる。いかにも静六らしい発想だが、いささか冒険の要素が強すぎる。
現地を熟知している齊藤にも加わってもらい、合計二七名からなる登山隊を編成。調査に向かった。大阪朝日新聞社の記者だった矢野龍渓(りゅうけい)も加わっている。
静六はまだ三〇歳の若さであったが、それでもいささか無謀な挑戦である。切り立った崖が続き、荷物を持ってもらった現地人が泣き出すほど苛酷な登山であった。
おまけに風土病であるマラリアが猛威を振るっている。矢野は早々と罹患して脱落し、静六はさらに悲惨で、登山の途中で発熱した。
山頂は目の前に見えている。わざわざ頂上の標高を測量する機器まで持ってきていたが、身体がいうことをきかない。悔しそうな彼の顔が目に浮かぶ。
別働部隊だった齊藤たちは迷わず山頂に挑戦し、登頂に成功した。そして山頂から下りてきた斎藤は、静六の苦しげな様子に同情しつつもやや無神経な言葉を発した。
「もう僕が初登頂の名誉は頂いたんだし、君らもうよしたまえ。その様子では、とても上には登れない」
それは病魔に犯されてなお山頂に向かおうとする静六を諦めさせるため、意図的に発せられた厳しい言葉だったのかもしれないが、齊藤の登頂は静六に相談しない独断でのものであったはずで、かえって静六の怒りに火をつけた。
「なにっ!」
その言葉を聞いた静六は怒髪天を衝き、体力のない身でありながら抜刀して怒りをあらわにしたという(「日本帝国における植民地森林官の思想と行動 齋藤音作の前半期の足跡から」竹本太郎著)。
手にしていたのは、さしずめ例の家宝の刀に違いない。人間の修行を積んできたはずだが、相変わらず血の気の多いことこの上ない。
斎藤も日本刀で袈裟斬りにされてはたまらない。
「申訳ない。謝るよ。償いとして、もう一度登って測量してこよう」
彼はそう言うと、もう一度険しい崖に挑戦して山頂の手前まで到達し、四一四五メートルと計測してきた(実際には三八六九メートル)。いずれにせよ富士山よりも高い山であることがはっきりしたわけである。
本多隊山頂制覇の報せは天聴に届き、玉山は明治天皇によって新高山(にいたかやま)と名づけられた。「ニイタカヤマノボレ」という真珠湾攻撃の際の暗号文に出てくることでも知られている。
だが実際には、静六たちが登ったのは玉山の主峰ではなく八〇〇メートルほど離れたところにある東峰(八三メートル低い)であったことが後に判明している。
主峰に日本人として最初に登ったのは人類学者の鳥居龍造とされ(諸説ある)、明治三三年(一九〇〇)のことであった。
齊藤は玉山登頂の翌年、反乱と誤認して現地の住民二三名を殺害し、村を焼き払うという大事件を起こし、懲戒処分を受けて帰国を命じられている。玉山登山の際も隊長である静六に登頂の栄誉を譲る姿勢を見せなかったわけだし、相当鬱屈していたのではあるまいか。
玉山登山の途中、静六は日本のみに自生するヒノキ属のサワラに似た木を発見し、サンプルを持ち帰っていた。これは後に台湾だけに自生する木であることがわかり、別の研究者によって新種タイワンベニヒノキと命名された。
その後、樹齢一〇〇〇年を越える巨大なヒノキが林立する大森林が玉山周辺で発見され、日本のヒノキの変種であるタイワンヒノキであることがわかった。
帝国大学農科大学は、明治三五年(一九〇二)、静六が踏破した一帯を台湾演習林にしている。
帰国後の静六は多忙の身となったため、台湾の林業開発は親友である河合鈰太郎にバトンタッチすることとなった。
河合は阿里山大森林開発事業の青写真を作っただけでなく工事監督まで引き受け、海抜二五〇〇メートルの高地に阿里山森林鉄路を開通させるなど、林業の振興に大いに貢献した。
靖国神社の神門、橿原神宮の神門と外拝殿、東大寺大仏殿の垂木、焼失前の首里城、明治神宮の日本一の大鳥居など、タイワンヒノキは多くの建築に利用され、今では台湾に樹齢二〇〇〇年を越えるものは残っていない。
巨木を切ったのは申訳ないことだったが、一方で林業を盛んにし、台湾を富ませることに成功した。台湾開発というとダム設計技師の八田與一が有名だが、河合は八田同様、台湾の人々に大いに感謝された。
静六も台湾の公園の設計は引き受け、当時はまだ無人の渓谷であった北投(ベイトウ)や亀山島(きさんとう)の温泉地などの公園設計を行っている。
彼は玉山登山の七年後、台湾を再訪し、河合の指揮した開発事業を視察。期待通りの仕事をしてくれていることに心から感謝した。
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