見出し画像

【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #18

前回はこちら↓

永遠の森18

【本多静六、一八九〇年四月二九日にマルセイユに到着】

第三章 飛躍のドイツ留学 (2)

三等船室での渡航

明治二三年(一八九〇)三月二三日、この日は、前夜来の雨もあがって晴れ渡り、早くも咲き始めた芝公園の桜が青空に映えて美しかった。待ちに待った留学の日。静六の胸の高鳴りがいかばかりのものであったかは想像に難くない。
午前五時半、芝区新堀町の自宅を出て新橋駅へと向かった。
駅には松野先生以下の学校関係者、島邨家で幾何を教わった細井均先生など、多くの見送りの人が集まってくれている。養父晋と銓子、母やそ、長兄金吾に次兄の白石吾造などの身内は、そのまま横浜港まで同行してくれた。
こうして家族や友人らに見送られ、静六は横浜港から小蒸気船に乗り、沖合に停泊中のフランス郵船ゼナム号へと乗り込んだ。
三〇〇〇トンだったというから海上保安庁の巡視船くらいの大きさだ。ただ巡視船は四〇ノット出るが、ゼナム号は一四ノット。それでも静六には驚くほどの早さに感じられ、〈みるみる横浜港は波の彼方に消えていった〉と『洋行日誌』に記している。

本多家が費用を出してくれるからといって贅沢をするような静六ではない。一番安い三等室を選んだ。
三等船室は舳先(へさき)の尖ったところにある薄暗い三角形の部屋で、海が荒れると波しぶきが窓から入ってくる。おまけに頭上の甲板には大きな錨(いかり)の鎖が丸めてあり、錨を下ろす時にはガラガラと耳をつんざくような音がした。
(なるほど三等のはずだ)
と妙に納得した。
乗客より乗組員のほうが多く、おそらく合計一〇〇名ほどが乗船していたと考えられ、船医も一人同乗していた。乗客の多くはフランス人で、日本人は静六以外に七人乗船していた。
日本人乗客の多くは軍人や官僚だ。みな国家の威信を背負っているから一、二等船室に乗船し、三等船室の日本人は静六のみであった。
他の日本人のいる一、二等船室には、三等の乗客は立ち入り禁止になっている。一、二等と三等の差は歴然で、
〈金の威力というのは、このように偉大なものかと考えさせられ、生涯この金には困らぬようにしたいと深く感ずるところがあった〉(『体験八十五年』)
と回想している。

三浦半島の先端の観音崎を出ると、次第に船は揺れはじめた。
静六は幼い頃、家の前の用水で馬を洗うための大タライに乗って遊んだ以外、水の上に浮かぶものに乗ったことがない。相模灘あたりで早くも船酔いのためにダウンしてしまった。ハンカチはもちろん買いたてのハンチング帽まで嘔吐で汚し、もったいないが海に捨てた。
食べるものといえば、銓子が持たせてくれたミカンしか喉を通らない。神戸まで一昼夜の間、ほとんど飲まず食わずで吐き続け、もうこの先の航海は無理だと神戸で下船することも考えた。
ところが船がしばらく停泊している間、上陸して風呂に入り、散髪をし、布引の滝や楠公神社を見学したりしながら市中を歩くうちすっかり気分もなおったので、気を取り直して再び乗船することにした。
静六は不思議な体質をしていた。
航海の間中、船酔いに苦しむ人も多い中、その後はすっかり慣れてしまったのだ。食事の時間が待ち遠しくなり、大揺れの日でも例の大食を披露して喝采を受けた。

静六はフランス語が話せないから、同室のフランス人曲芸師たちとは必要な時だけジェスチャーで意思の疎通を図る程度。ほとんど一人で過ごすほかなく、フランス語の辞書ぐらい持って来るべきだったと後悔した。
一人ぽつねんと三等船室にいる静六がかわいそうだと思ったのか、一等船室からわざわざやって来て元気づけてくれる心優しい日本人がいた。名を坪野平太郎といった。
静六より七歳年長で、逓信省参事官として留学の途についていた。東京帝国大学法科卒業後、健康を害して一時、千葉の館山で病気療養していただけに、人の気持が理解できたのだろう。帰国後は郵便電信局長正七位に叙任されているからエリート中のエリートだ。
坪野は静六の手帖に「望みある身と谷間の水は、しばし木の葉の下を行く」という一句を記してくれた。そんな坪野の温かい励ましを、静六は後々まで忘れなかった。
人の縁とは異なものである。後年、彼らは神戸の地で、六甲山植林という一大プロジェクトに取り組むこととなるのである。

上海でメルボルン号に乗り換え、香港、サイゴン、シンガポールをまわり、コロンボ、アデンから開通間もないスエズ運河を経て、モーゼの登ったシナイ山を仰ぎ見、地中海に出た。
本多静六記念館には『洋行日誌』と題された詳細な日誌が保管されている。これは静六が留守宅の人々を安心させるために書き送った手紙を清書して製本したものだ。そこにはいろいろなエピソードが書かれているが、紙面の関係からすべてご紹介することはできない。
だが、静六があわや命を落としそうになった事件だけは触れないわけにはいくまい。
雨の夜のこと、乗っていた船が他の船と衝突し、相手の船は沈没、乗組員三〇名あまりが命を落とすという大惨事が起こったのだ。
事故が起こった当初は、ただならぬ船内の雰囲気に静六も覚悟して一時は救命胴着を着用したほどであったが、奇跡的に彼の乗った船は損害が軽微ですんだ。
ともあれ、その先も順調に航行は続いた。
イタリアのナポリに寄港して一日滞在し、明治二三年(一八九〇)四月二九日にマルセイユに上陸する。汽車でリヨンからパリを経て、出発から約一か月半後の五月四日、ベルリンに到着した。
ベルリンでは、ドイツ兼ベルギー公使であった西園寺公望(後の首相)と面会している。現代の留学生がその国の公使や大使に挨拶することなどあり得ないだろうが、当時の留学がいかに国家の大事であったかが窺える。

ドイツとプロイセンという両方の呼び方が出てくるのでここで整理しておくと、明治四年(一八七一)、プロイセン王がドイツ皇帝に就任し、プロイセン王国を中心とし、バイエルン、ザクセン、ビュルテンベルク王国のほか、バーデンなどの大公国や公国、侯国からなる連邦国家を誕生させていた。
ベルリンはプロイセン王国の首都として大いに繁栄しており、医学や兵学を学ぶ留学生の多くはベルリンに滞在していた。
滞在中は奈良原竹熊という留学生が何かと世話をしてくれ、ベルリンの市内見学にもつきあってくれた。
奈良原は、静岡や沖縄の県令、貴族院議員を歴任し、日本鉄道社長としても活躍した奈良原繁男爵の長男だ。将来を嘱望されていたが、この後身体を壊し、ドイツから帰国後しばらく静養していたが病没する。
気候風土が違うと体調を崩しやすいのは言うまでもない。その点、静六は船酔いも簡単に克服したように、体質的にも性格的にも新天地への適応力がずば抜けていた。
そして静六は、最終目的地である留学先のターラントへと向かった。ここからは日本人の同行者がいない全くの一人旅だ。
そしてターラントに向かった静六は、またしても新たな適応を求められる事態となった。あれほど勉強したはずのドイツ語が通じなかったのだ。
「立派なドイツ語を書くね」
と褒められたが、どうしたわけか話すと通じない。そこで仕方なく筆談をしながら何とかターラントにたどり着いた。
いや正確に言えば、周囲の乗客と筆談している途中で、見かねたターラントの粉屋さんが親切にも、
「僕もターラントまで行くから、連れて行ってあげよう」
と言ってくれたのだ。
どの国にも心優しい人はいるものだと、心の中で手を合わせた。

次回はこちら↓