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【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #26

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永遠の森26

【助教授時代の本多静六】

第三章 飛躍のドイツ留学 (10)
日本最初の林学博士

静六が留学中の明治二十三年(一八九〇)六月、東京農林学校は所管が農商務省から文部省に移り、帝国大学農科大学となっていた。
そして明治二十五年(一八九二)五月末にドイツから帰国した静六は、七月二十六日付で帝国大学農科大学助教授に就任。高等官七等従七位に任じられた。
彼が幼い頃憧れた〝お役人〟に、ついになることができたのである。
当時の役人は勅任官、奏任官、判任官と分かれており、高等官七等は奏任官に該当する。数年間判任官を務めた上で奏任官になるのが慣例だが、静六は大学卒業後二年にも満たず、一足飛びに奏任官になったわけだ。ドイツ留学と博士号獲得がいかに高評価を受けたかわかるだろう。
実は事前に松井直吉学長より内々に教授就任の打診があったのだが、自分が教わった先生たちより上に立つのは心苦しいと言って断り、助教授を選んだ。
彼は後にこのことを後悔している。静六より二年間遅れて留学から帰国した川瀬善太郎は遠慮することなく教授に就任したからだ。教授のポストには枠があるため、静六は八年間も助教授に甘んじなければならなかった。
年齢を偽って入学した静六は、同級生の川瀬より四歳も年下である。特例で繰り上げ卒業した件といい、これまでが性急にすぎたので、年功序列に戻すよう時間調整をされたのではあるまいか。

静六のように活躍の場を与えられた者もいれば逆もある。
この時、帝国大学農科大学教授陣の中に松野礀(まつのはざま)教授と中村弥六(なかむらやろく)教授の姿はなかった。
中村の場合は政界に転じたためで、静六が留学の途についた年の七月に行われた第一回衆議院議員選挙に郷里の長野から出馬して見事当選していたが、松野の場合はいささか事情が違った。
当時の学生は教授の実力が低いとみるといびり出す。本場ミュンヘン大学で学んだ中村弥六やマイエル、グラスマン教授に比べると、松野の力不足は否めない。
我が国林学の祖として多大な貢献をしてきたにもかかわらず、松野が帝国大学農科大学の教授であった期間はごくわずかで、すぐに非職扱いとされてしまうのである。学問の急速な進化が生んだ悲劇だった。
いよいよ静六たちが日本の林学を支える時代がやってきたのである。
静六は助教授として林学第二講座を担任することになったが、松野、中村、マイエル教授が欠けた分、授業負担は増大していた。川瀬が帰国するまでの間は、本来の担当である造林学と保護学のほか、林政学、林学通論等も本科と実科の両方にわたって担当することとなった。
毎週二十数時間も講義したというからすさまじい。今のように週三日が出講日で一日二コマを担当(つまり週に九時間)といった優雅な大学教授とは労働環境がまったく違っていたのだ。あまりの忙しさもあり、静六夫婦は東京駒場の農科大学内の官舎に引っ越した。

これまで林学は必ずしも花形の学問ではなかった。
江戸時代の日本では林業は社会的に差別されていた杣人(そまびと)の仕事であり、明治に入っても林学は、〝山林(三厘)は天保銭(八厘)より安い学問〟と揶揄(やゆ)されていた。ちなみに一厘は現在価値にすると三十円ほど。静六が友人の河合と連れだって山林学校から士官学校に転校しようと試みたのも、そうしたことが背景にあったのだ。
しかし静六は、ターラント山林学校のユーダイヒ校長がザクセン王国の枢密顧問官に列し、ミュンヘン大学で林学者のガイアー博士が大学総長になっている姿を見て帰ってきた。日本でも林学者の地位を上げてみせると意気に燃えていた。
静六が帰国した頃、海外の翻訳書はあったものの、日本人による林学の専門書はほとんどなかった。農商務省山林課雇員の田中壌(たなかさかい)が『大日本本洲四國九州植物帯調査報告』(明治十八年)を出し、山林局長の高橋琢也が『森林杞憂』(明治二十一年)を出してはいたが、極めて数が限られていたのだ。 
静六より二年以上前に留学から帰ってきていた志賀泰山は、ようやく明治二十六年(一八九三)になって『森林経理学前編』を出版している。
研究成果を書籍にするのは慎重にならざるを得なかった。自分の学問水準を満天下にさらすことになるからだ。
明治二五年(一八九二)に松野礀が出した『林制一班』などはわずか二十五ページの小冊子で、とても学術書と呼べるものではなかった。人のいい松野は、それでも世の中のためになるだろうと思って出版したのだが、学生から追放運動を起こされたのは先述のとおりだ。学術書を世に出すのは相当な覚悟が必要だったのである。
だがこうした状況に焦燥感を募らせたのが静六だ。自分の身につけた学問に自信のある彼は、啓蒙活動を開始していく。
明治二十七年(一八九四)の『林政学 国家と森林の関係』前後編にはじまり、明治三十一年(一八九八)の『造林学各論』、明治三十二年(一八九九)の『学校樹栽造林法』、『提要造林学』と、矢継ぎ早に本格的な林学書を世に送り出していった。
ちょうど明治二十七年に日清戦争が勃発。わが国初の近代戦争に勝利していた。これからは欧米と肩を並べる一流国になっていくのだという、この国を包んでいた熱も静六の背中を押していたのである。
ちなみに先に教授となっている川瀬が『林政要論』を出したのは、明治三十六年(一九〇三)と、相当後のことであった。

明治三十年(一八九七)に京都帝国大学が設立されると、帝国大学農科大学は東京帝国大学農科大学と改称される。ちなみに分科大学が廃止されて学部制となり、東京帝国大学農学部となるのは大正八年(一九一九)二月のことである。
明治三十二年(一八九九)三月、静六は林学博士の学位を授けられた。
わが国の博士号の歴史をひもとくと、まずは明治二十一年(一八八八)五月の学位令によって文学、法学、医学、理学、工学の五つの博士号が設けられ、二十五名が選ばれた。法学博士は加藤弘之ら、医学博士は高木兼寛ら、理学博士は菊池大麓ら、工学博士は古市公威(ふるいちこうい)らである。
そして明治三十一年(一八九八)十二月の学位令改正によって、農、獣医、林、薬の四つの博士号が新設されたというわけだ。
本多静六というと〝日本最初の林学博士〟の肩書きがつきもので、まるで博士一人が第一号のような印象を与えるがそれは正しくない。第一号林学博士は五名選ばれているのだ
ただ静六はなんと二番だった。一番が大学院を卒業したばかりの河合鈰太郎、三番の志賀泰山と四番の中村弥六は帝国大学評議会推薦、五番の川瀬善太郎は帝国大学総長推薦となっている。
河合がなぜ一番だったのかは判然としないが、翌年、六番目に博士に選ばれた小出房吉も大学院卒業生であったことを考えると、新設された大学院の権威を高めるために彼らを優先していたような気がする。

静六が博士に選ばれたのは博士論文(『日本森林植物帯論』)によってであった。出版予定で書き終えていたものであり、博士号取得の翌年に発刊されている。
静六は明治三十年(一八九七)、北海道庁林務課に転勤していた田中壌の案内で、北海道の森林を視察していた。
この論文は、そのときの経験や田中が日本各地の植物体調査をしてきた成果を踏まえ、ドイツで学んだ林学の紹介を折り込みながら、この国の林業をどうしていくべきかという方向性を示す意欲作であった。
彼はまず天然の森林植生と人為的に形成された植生とを明確に区分した。現在の用語でいう天然林と二次林に対応する。
その上で、その気候や環境ならではの〝あるべき森林の姿〟があるはずだと考えたのだ。現状を分析し説明するのは比較的たやすい、しかし、将来どうなっていくかを予想して布石を打つのはきわめて難しい。
静六は絶えず未来を見つめていたのである。

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