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【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #48

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永遠の森48

【犬と散歩する女性と首賭けイチョウ】

第四章 緑の力で国を支える (18)
首賭けイチョウ

日比谷公園に関する静六のエピソードの中で最も有名なのが〝首賭けイチョウ〟にまつわる逸話だろう。
話は日比谷公園開園の少し前にさかのぼる。今の日比谷交差点近くの朝日生命日比谷ビルの角あたりにイチョウの古木があった。
ちょうどこの時、日比谷通りの拡幅計画があり、移植するには大きすぎるというので切り倒されることになった。
そして静六は、まさに切り倒そうとしている現場に通りかかったのだ。
「こんな立派なイチョウを切り倒すとは!」
彼は一面識もない現場担当者に、ほとんどけんか腰になって怒鳴っていた。
怒鳴られた方はいい迷惑だ。聞けば払い下げ先も決まり、その銘木店は代金の四九円(現在価値にして一〇〇万円弱)をすでに市に支払い済みだという。
そこまで話が進んでいるのならしかたないとあきらめるのが普通だろうが、静六は違った。
「とにかく作業は中止してくれ。わしが行って話をつけてくるから」
そしてその場で東京市参事会議長の星亨に面会を申し入れた。

先述したとおり、星は東京市政のドンだ。静六より一六歳年上である。
日比谷公園の設計者として旧知の仲ではあったろうが、親しかったとは思えない。二人の間には最初から火花が散った。
「大木が貴重であることは言われるまでもなく承知している。だが本職の植木職人でさえ、あんな大木の移植は困難だと言っているのだ。いかに君が林学の専門家であっても移植できるとは思えない」
星の言葉には、決まったことに横やりを入れてきた静六を黙らせようとする威圧感があったが、静六は負けなかった。政治の話なら別だが、樹木に関することは自分が専門だという自負もあった。
「植木職人が不可能としても、我々にはそれを可能にする学問の力があります」
「しからば貴公、移植して活着せしめることをいかにして保証できるのか?」
星は元弁護士でもあるから弁が立つ。さしもの静六もこの言葉には一瞬たじろいだが、売り言葉に買い言葉、強気な言葉が次々と飛び出した。
「一尺のハンコを押して保証します」
「ハンコだけでは当てにならない」
「では私の首をかけましょう!」
〝押し通る〟と呼ばれる強引さで知られた星が、見事に気合い負けした瞬間だった。
「そこまで言うなら、やってみたまえ」
この林学者は、自分には一文の得にもならない一本の古木のために、自分の首をかけると言う。学問の世界に、こんな任侠の世界のような人間がいるとは…。
これまでの険しかった表情を解いた星は、思わず苦笑を浮かべていた。

威勢のいい啖呵(たんか)を切った静六だったが、実際には学問の力だけでは無理であった。ともかく、都心にある貴重な大イチョウを救いたかったのだ。
移植するための植木職人探しは、星の言うとおり大変だった。このような巨木の移植を経験した者はおらず、何人もの職人が巨大なイチョウを一瞥するだけで尻込みした。そんな中、四人目の職人がやっと引き受けてくれた。
巨木の幹も根も可能な限り切ったが、それでも大変な重量である。公園内までレールを敷き、約四五〇メートルをそろりそろりと二五日間かけて、現在の松本楼のそばまで運んでいった。
こうして、なんとか大イチョウは移植された。
運搬中に新芽が生えてきたのには肝を冷やした。芽に栄養がいくと木が弱ってしまうからだ。移植後も心配で、毎週イチョウの木の下に立って樹勢をチェックし、移植の成功を祈った。

果たして大銀杏は無事活着してくれた。
だが静六は、
「どうですか星さん、約束通り無事移植してご覧に入れましたよ」
と胸を張ることはできなかったのである。
明治三四年(一九〇一)六月二一日、市役所内で参事会を開催している席上、星は壮士伊庭想太郎(いばそうたろう)によって刺殺されてしまう。政治腐敗の張本人と目されてのことであった。だが実際の星は質素な生活をしており、彼の死後には借財だけが残ったという。

園内に洋風レストラン松本楼を開いた小坂梅吉と静六は親しく、養父母同伴したり家族を釣れたり時には大勢の孫たちを連れて松本楼で会食することを楽しみにしていた。
また日比谷公会堂で講演会がある時にはいつも家族を同伴し、講演が終わると松本楼で食事するのを常とした。
それは店の窓から、自分が手塩にかけたあの首掛けイチョウが眺められるからだったに違いない。
静六のお陰で生きながらえたこのイチョウは、その後も数奇な運命をたどった。
樹齢四〇〇年以上、幹回り七メートルという堂々たる姿だが、戦時中、公園に設置された高射砲の邪魔になるというので樹冠を伐られ、樹高は二〇メートルしかない。静六が移植した際はもっと高かったはずだ。
また昭和四六年(一九七一)一一月一九日、日比谷公園で沖縄返還協定批准反対集会が開かれたが、松本楼は暴徒化した過激派学生が投げた火炎瓶によって全焼。大イチョウも火の粉をかぶって焼けただれた。
幸い枯死することはなかったが、いまだに葉が周囲のイチョウより小さく、葉が落ちるのも例年早い。なんとか樹勢を回復してほしいと祈るのみである。

長い年月とともに静六が植えた苗木は大きく育っていった。
その一方で先述した地質の悪条件もあって、開園前からあったカヤやモミやマツの大木のほとんどは枯死してしまい、今残っているのは音楽堂の近くのエノキの大樹だけだ。
ちなみに日比谷公園で一番高い木は公園サービスセンター前にあるアメリカスズカケノキで約二五メートル。明治三七年(一九〇四)に目黒の林業試験場から移植されたものである。その枝を挿し木した街路樹が、都内には相当数あるという。
園内の記念樹として最も有名なのがアメリカから送られたハナミズキであろう。
明治四五年(一九一二)、東京市長尾崎行雄がサクラの苗木をワシントンに寄贈した返礼としてアメリカハナミズキ四〇本が贈られ、その一部がここ日比谷公園に植えられた。
こうした木々が十分な木陰を提供し、今では静六が企図したとおり散歩に最適な都心のオアシスとなっている。

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