【北康利連載】二宮尊徳~世界に誇るべき偉人の生涯~ #07
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第七回 栴檀は双葉より芳し
ある日、道仙がいつものように診察に行くと、金次郎が土間でせっせと草鞋を編んでいる。
「精が出るのう。それだけ編めば四、五日分の食事にはなるじゃろう」
ところが金次郎の口からは驚くような言葉が返ってきた。
「いいえ。私は幼く、堤の工事でお役に立てておりませんので、皆さんに使っていただくための草鞋を編んでおるのです」
(年端もいかぬ子どもが、そんなことを考えていたとは!)
道仙は感じ入った。
だが金次郎の考えは道仙の想像を超えていた。彼はその編んだ草鞋を普通に村人に配ろうとはしなかったのだ。
(それでは恩着せがましいことになる)
そう思った彼は、堤の上に一足ずつ置いていった。
ところが当時の日本人は律儀なもので、誰かが予備の草鞋を置いているのだろうと思って誰も拾ってくれない。そこで今度は、草鞋を片方ずつ置いておくことにした。これだと村人も誰かが落としてしまったものだと思って拾ってくれた。
栴檀(せんだん)は双葉(ふたば)より芳(かんば)しという。二宮尊徳は〝陰徳(いんとく)〟を大事にした人だ。それがすでに子どもの頃から行動に表われていたのである。
薬代は積もり積もって二両になっていた。
当時の貨幣の現在価値の換算はなかなか難しい。日本銀行貨幣博物館は江戸中期、一両は四万円から六万円だったとしているが、磯田道史は『江戸の家計簿』の中で次のような趣旨のことを述べている。
「江戸時代の一両は米の価格を元にしたら五、六万円にしかならないが、それは現在の米の価格は江戸時代に比べて格段に安いからであって、大工の日当などを元にした現在価値換算だと一両は三〇万円に相当する」
江戸時代は幕末を除けば物価の安定した時代であった。そこで本書では一貫して同書にならい、現在価値換算を一両三〇万円にしたい。すると二両の薬代は六〇万円ということになろう。
利右衛門は相変わらずの律儀者である。
彼はきちんと払おうとして田畑を売った。まだ小石混じりで二束三文にしかならない。それでもなんとか三両二分の金に換えた。
しかし道仙は薬代を受け取ろうとしなかった。〝栢山の善人〟とその息子の行いを目にしていたからである。
「せめて半分だけでも受け取ってもらわねば」
利右衛門は言い募り、根負けした道仙は、
「わかった。それは受け取ろう。代わりに、うちにある本を貸すからお宅の金次郎を寄越しなさい」
と利右衛門に言い渡した。
金次郎が大喜びしたのは言うまでもなかった。
当時の重労働の一つに、煮炊きに使う柴刈りがある。
栢山に山林はないが、一里(約四キロ)ほど離れた久野山や矢佐芝山などに村の入会地(いりあいち)(共同管理地)があった。
基本的に入会地では自家用の柴しか取ってはいけない。しかし残った分は久野からさらに南に一里ほど離れた小田原城下まで売りに行けば現金収入になった。柴刈りは弱者救済のための助け合いの仕組みにもなっていたのだ。
ただ、一二月、一月、二月にしか柴刈りにはいけないという決まりだった。この季節になると金次郎は毎朝、空が明けきらないうちに起き、柴刈りに行った。朝早く行けば、風などで前夜折れて落ちた枝も拾えるからだ。
柴を背負ってただ歩くだけでは時間がもったいない。そこで道仙のところで借りてきた漢籍(かんせき)を懐中にしのばせ、意味が分からないながらも行き帰りに歩きながら暗唱した。これこそ、あの学校にある二宮金次郎像のいわれになったエピソードだ。
今も明神ヶ岳に登る矢佐柴ルートには「二宮金次郎腰掛石」が残されている。
金次郎が柴を背負いながら書物を読んでいるという噂は村で評判になった。
プラスの意味で、ではない。それは彼に〝キ印(気違い)金治〟(筆者注:現代では不適切な言葉だが、歴史的事実としてママ表記する)というあだ名が付いたことでもわかる。
先述したように彼は寺子屋には行っていない。今もそうだが勉強は学校でのみするものではない。時間があるからするものでもない。
四書五経(ししょごきょう)は古来、教養(リベラル・アーツ)の扉とされてきた。教養とは既成概念にとらわれず、発想を自由にする心の翼を手に入れることだ。時空を超えて古代中国の賢人を通じて得た心の翼は、農業にも大いに役立つことを彼は後に知るのである。
本連載は会員制雑誌である月刊『致知』に掲載されている連載を、致知出版社様のご厚意で一ヵ月遅れで転載させていただいております。
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