【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #03
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【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #03

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永遠の森3

第一章 勉強嫌いのガキ大将 (1)

折原静六

本多静六は慶応二年(一八六六)七月二日、武蔵国埼玉郡河原井村(現在の埼玉県久喜市菖蒲町河原井)の農家に、父折原長左衛門(通称禄三郎)、母やそとの間の六番目の子(三男)として生まれた。大学生の時、本多家に養子に入っているが、それまでは折原静六である。
八人兄弟であったが、三人は早世し、一〇歳の頃にはすでに兄が二人、姉が一人、妹が一人になっていた。幼くして命のはかなさを感じ、世の無常をかみしめるのは、当時のこの国の日常であった。
静六と同じ年に生まれた有名人としては、第一生命創業者の矢野恒太、川崎造船所社長にして松方コレクションで知られる松方幸次郎、洋画家の黒田清輝、昭和恐慌の時に首相となった若槻礼次郎、探検家の河口慧海、モラロジー運動で知られる廣池千九郎などがいる。
彼らが生まれた慶応二年という年は、第二次長州征伐が始まり、徳川慶喜が第十五代将軍となった年として知られるが、そのわずか二年後には大政奉還により明治新政府が発足している。
物心ついたときには明治の世になっていたわけで、同じ埼玉に生まれた二六歳上の渋沢栄一とは違い、尊皇攘夷熱に浮かされて周辺の城を焼き討ちしようなどという物騒なことは考えずにすんだ。
そういう意味では、先人が流した血のおかげで、青年期のような若々しい日本の空気を肺腑(はいふ)一杯に吸い込み、司馬遼太郎風に言えば坂の上の一朶(いちだ)の雲をめがけ一心に邁進することの出来た幸せな世代であった。

利根川の氾濫原に清水の出る井戸があったことから河原井と名付けられたこの村は、関東平野の北西部、利根川と荒川の中間に位置する。村の南端には利根川の支流である星川(ほしかわ)が流れていた。
北に日光の男体山、赤城山に榛名山、浅間山や妙義山といった山々が連なり、東に筑波山を臨み、西に見える秩父山地の向こうからは、富士の頂きが意外なほど大きな姿を見せている。霊峰富士と折原家の深い関係については後に触れる。
当時の河原井村は戸数二五軒ほどの小さな集落だったが、その中にあって折原家は代々名主を勤める村一番の裕福な農家だった。
藤原鎌足の後胤(こういん)とされる折原丹後守という人物が始祖とされる。勇猛な東国武士であったが、戦乱に倦(う)んで帰農し、この地に土着して名を折原長左衛門と改めた。
以来、折原家ではその多くが長左衛門、友右衛門を号し、静六の父は一一代目にあたる。九代目善次郎はすでに逝去していたが、一〇代目の友右衛門はまだ矍鑠(かくしゃく)としていた。
かつて、あたりには河原井沼(長さ三・八キロ、幅一・七キロ)という広大な湿地帯があり、村人たちは排水路を通して干拓する努力を続けた。土木工事が日常的にあったことから、折原家は自然と工事の頭領となり、そのノウハウが後に思いもしない形で生きることになる。ちなみに河原井沼の一部は現在、久喜菖蒲公園、昭和沼、久喜菖蒲工業団地となって、そのよすがを伝えている。
先人たちの努力により、静六が生まれたころには、村は一面の田畑に変貌していた。ところどころ杉やけやきの林が点在し、森陰に茅葺きの農家が隠れている。遮蔽物のないこの地域は赤城おろしと呼ばれる強風が吹く。家の周囲に植えられた木々はいわゆる屋敷森であった。東南の日当たりのいい場所にはどこの家でも決まって柿の木が植えられ、その下には茶や桑が栽培されていた。
村一番のお大尽(資産家)と呼ばれた折原家の屋敷は、用水路の北側の道路に沿って五反(約五〇○○平米)もの敷地を持つ堂々たるもの。
南に面した瓦屋根の表門は意外と質素だったが、中に入ると広い庭があり、東側に土蔵と物置がある。その先に幅一六間(約二九メートル)もある茅葺きの母屋が建っており、後方の中庭に建つ文庫蔵と隠居所とは渡り廊下でつながっていた。さらに後ろには広い車門(車馬の通用口)にツツジや松の老木、梅やモチノキなどが植えられた坪庭などがあり、一番北の端には例の屋敷森として杉やけやき、カシの老木がそそり立って冬の赤城おろしをしっかりと防いでいた。
折原家の方は今でもこの場所にお住まいだ。当然ながら静六のころの建物は残っておらず敷地の半分ほどは分譲されているが、静六の兄金吾が当主の時代に建てた御影石の巨大な四本の石柱が、かつて表門のあった場所を示している。

静六が満五歳になった明治四年(一八七一)、浦和県、忍県、岩槻県が合併して埼玉県が発足した。
その翌年には全国で大区小区制が施行となり、父禄三郎は埼玉県第十八区副区長を務めることになったため、かつて中山道の宿場町として栄えた桶川町(現在の埼玉県桶川市)の区役所に毎朝馬に乗って通った。牧歌的な時代である。ただし、この馬の世話のため、朝の草刈りが折原家の日課となった。
地域の世話に休みはない。留守がちな禄三郎に代わって、母やそは毎日目の回る忙しさ。もっぱら静六は、祖父母(一〇代目友右衛門とその妻)と曾祖母やつ(八代目友右衛門の妻)の膝の上で育つこととなった。

カケスに教えられた親の愛

幼い頃の静六は手のつけられないガキ大将で、勉強せずに遊んでばかりいた。
子供はみなそうだが、季節に合せて遊びを見つける天才だ。梅雨明けの頃になると屋敷の周りにある柿の木から青い実が落ちてくる。それを拾い集めては、近所の子供と二手に分かれて源平合戦をした。
折原家の門前を流れる用水路は、日本三大用水路の一つである利根川から引かれた見沼代用水の支流に当たり、飼っていた馬を洗ったりもできる水量がある。
これが夏になるとプール代わりになり、橋代わりにかけてあった一枚板が飛び込み台になった。夏が終わるまでは日がな一日、水遊びに夢中だったというから、おそらく真っ黒になっていたことだろう。
家から五〇〇メートルほど南には砂州の多い星川が流れている。次兄の吾造と砂遊びや魚釣りに興じたが、静六は時間のかかる釣りよりも、流れをせき止めて魚を一気に捕る仕掛けの方が好きだった。秋になって田の水を抜く時など、ドジョウをごっそり捕ったという。こんな時に性格が出るものだ。
家の坪庭のモチノキの皮を剥いで叩いて水洗いし、モチを作っては、雀やトンボをつかまえに出かけた。あまりそれが頻繁なので、手の届く範囲の樹皮はきれいに裸にしてしまい、どんどん木が弱っていく。そのうち祖父に叱られ、モチノキの皮を剥ぐのは厳禁となった。後に林学博士になる人物とは思えないエピソードだ。
もっとも、稲の中で葉が黄色くなったものを集めてきて栽培して観察するなど、幼い頃から植物に人一倍関心はあったようだ。功成り名を遂げて故郷に錦を飾ったとき、地元の子どもたちと一緒に道を歩きながら、あたりの草の名前をかたっぱしから教えていって驚かせたという。

遊びでも何でも一心不乱。そのうち見境がなくなっていく。
相撲が大好きで二つ年上の茂吉という子が好敵手だったが、ある日、その茂吉と相撲を取っていて左腕を外してしまった。
日頃、母親から相撲は危ないからと止められていたのでおめおめ家にも帰れず、じっと納屋に隠れていた。そのうち静六が帰ってこないと言うので近所の人まで総出で大騒ぎになり、夜明け頃になってやっと納屋の藁束の中にいるところを見つかった。
痛みで顔は真っ青。死人のような顔をして苦悶しているので、やそも小言を言う前にびっくりし、急いで接骨院に連れて行かれた。
脱臼の治療は痛い。しかし必死に我慢し、声一つ出さなかったので、
「こんな子は初めてだ」
と医者に呆れられた。
強情さは静六の生涯の特徴だった。
一〇歳頃から雨の日の遊びに将棋を始めた。こちらは隣家の一つ年下の山田清吉という友達が好敵手だった。始めたらすぐにこり出す。朝昼なしに時と場所を選ばず盛んに指した。
ところが祖父の友右衛門は碁や将棋が大嫌い。
「碁や将棋は親の死に目にも会えないほど癖になるものだ。やっちゃいかん!」
そう言って叱られたそうだが、少々大げさだ。
だが、いくら叱ってもやめないので、そのうち将棋の駒を子どもが取れない天井裏に投げ込んでしまった。それでも静六はあきらめない。家から出刃包丁を持ち出してきて木を刻み、自分で駒を作ってまた始めたというから病膏肓(やまいこうこう)に入っている。
今度は祖父に見つからぬよう、目の届かない鎮守の森などへ行って指した。
一人前に将棋の格言を覚え、「桂馬の高跳び歩の餌食」「へぼ将棋、王より飛車をかわいがり」などと得意げに口にしながら、暗くなるまで勝負に夢中になった。
本来、将棋の美学とは、このゲームに審判がいないことでもわかるように、最後に「負けました」と自ら負けを認める潔さにある。そもそも相撲で脱臼したのは、最後まで負けたと言わなかったのが原因なのだ。
静六も自ら負けを認める謙虚さを身につけたとすれば大いなる飛躍につながったはずなのだが、彼の自伝の中の回顧談によれば、それにはさらに時間と〝体験〟を要したもののようである。

当時のいいところは、村には必ず寺があり、そこの和尚が子どもたちにとっての良き人生の指南役になってくれたことだ。静六の家のすぐ近くにも曹洞宗の幸福寺という寺があり、ここには折原家の立派な墓もある。そこの吉川洞学という和尚が子供たちを集めては、ためになる話を面白おかしく聞かせてくれた。
だがわんぱくな静六は、おとなしく話を聞いていることが出来ない。ガキ大将として子分を従え大いばりで走り回っていた。
今でも幸福寺の門前には、樹齢四〇〇年とも言われる大きなサイカチの木がある。
幹や枝に針のようなとげがあるのが特徴のマメ科の高木落葉樹だ。漢字にすると皀莢と書き、去痰・利尿効果のある漢方薬として知られる。明治時代、幸福寺ではこれに他の漢方薬を混ぜたものを「五香湯」として売り出し、遠く東京からも買い求めに来たという。
外敵が近づきにくいことから、この木の上にはカケスなどがよく巣を作った。静六たち悪ガキどもにとっては絶好の標的だ。巣の中の雛をとってやろうと狙うのだが、竿では届かない。
普通なら諦めるところだが、それではガキ大将の面目にかかわると考えた静六は、子分たちを前に針のようなトゲを恐れずよじ登り始めた。そして巣の中の雛を残酷にもつかんで外に放り出したのだ。自伝には〝威張りに威張った〟と書いている。
ところがここで思わぬことが起こった。子どもを取られた親のカケスたちが静六めがけて攻撃してきたのだ。たまらず木からずり落ちたが、手足は血だらけ着物も破れて散々な目に遭った。
騒ぎに気づいた和尚は、静六たちを呼んで強く叱った。
「子を思う親の心は鳥ですらあの通りじゃ!」
さすがに、この言葉は心にしみた。

永遠の森3-1

――子孫を本当に幸福ならしめるには、その子孫を努力しやすいように教育して、早くから努力の習慣を与え、かつできるだけ努力の必要な境遇に立たしめることである。
とは、晩年に静六が書いた『私の財産告白』の中の言葉である。
ところが意外なことに、折原家では静六に学問をしろとは言わなかった。特に友右衛門は、学問をすると頭でっかちになって働かなくなると考えており、それをいいことに静六は遊んでばかり。
見かねた長兄の金吾が、
「お前も少しは学問しなくちゃいけないぞ」
と諭しても、
「おらぁやだ。手習いするとものぐさになるって、おじいさんがいつも言ってらぁ」
と口答えして、相変わらず遊び回っていた。
一〇歳年長だった金吾は温厚な性格で、よく出来た兄であった。静六が悪戯をして近所の人から叱られても、いつもかばってくれるのは金吾だった。
若い頃は彼のほうが、ずっと勉強好きでよくできた。この地域の秀才が通う私塾遷喬館(せんきょうかん)に入り、館長島邨泰(しまむらやすし)の家に寄宿して勉学に打ち込み始める。
「岩槻に過ぎたるものが二つあり、児玉南柯(こだまなんか)と時の鐘」
と呼ばれた岩槻藩重臣で儒学者でもあった児玉が開学した元藩校である。
運命は目に見えない糸でつながっているものだ。兄が世話になった島邨が、後に静六の人生を決定づける貴重なアドバイスをしてくれることになるのである。

(次回は4月23日更新予定です)

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