【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #74
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最終章 若者にエールを送り続けて (7)
楽老期をどう過ごすか
彼は『人生計画の立て方』の中で〝楽老期をどう過ごすか〟という章を立て、老境の生き方・暮らし方の秘訣を挙げている。
まず何より、老いたら負けであるように考えず、老いの到来を素直に認めることだと彼は言う。普通の養生法と健康法を励行しながら、愛欲も抑圧せず、自然な老人化に任せること。可能なら、後進の邪魔にならない程度に壮年期の仕事の一部を奉仕の精神で継続するのもいい。
そして早くから陰徳を積み、老年期はその陽報がもたらされるのを、〝あっても良し、なくても良し〟という気楽な気持ちで楽しむことだ。
かつて静六は〝如水生(じょすいせい)〟というペンネームを用いていたが、これは老子の〝上善如水(じょうぜんみずのごとし)(最上の善は水のようなものだ)〟という言葉から来ている。まさに自然を至善として、ごくごく自然に逆らわずに生きていこうとし、水のように自在に形を変える自由な境地を目指していた。そうすればいつまでも健康で長寿を保つことができると確信してもいた。
人の知能は老いないというのが静六の持論であった。老人も時間を十分与えさえすれば、知識吸収能力は二〇歳前後と特に変わらないと述べている。
実際、晩年まで腰も曲がらず、目や耳も達者であった。
普段もバスやタクシーなどにはほとんど乗らない。歩くことは彼にとって生活の一部だった。
八〇歳をすぎても一〇キロほどの道は平気で歩く。そもそも山の上に住んでいるから、伊東の街へ出かけるにはかなりの急坂をのぼりおりせねばならない。それをリュックサックに地下足袋姿で往復していた。
孫で医学博士の植村敏彦が一時血圧が一七〇になったと聞き、心配して東京からわざわざ血圧計を携えて診察に来てくれたことがあったが、その時も歓光荘から往復一二キロのところにある小室山(こむろやま)(標高三二一メートル)まで遊びに出かけていた。
留守番をしていたいく夫人に、
「そんな遠くの山まで遊びに行かれるようなら、診察する必要もありませんね。それにしても、おじいさんの体ばかりはわからない。研究材料にしたいから、日頃の生活を記録にとっておいてください」
と言い残して帰って行った。
薄着の習慣をつけていたが、万病の元になる風邪に対しては用心し、汗をかくとすぐ着替えた。まったく風邪をひかなかったわけではないが、意志の力でそれを克服してしまうのだ。たとえば明日講演があるから今晩中に治さなければと思うと、首に湿布を巻き体を温かくして本当に治してしまう。食べすぎて下痢を起こしても、断食療法で何も食べずに治してしまった。
ほとんど医者にかからないことから、
「本多博士は病気などしたこともない鉄人だ」
という噂が広まった。
煙草は吸わなかったが、若い頃から酒は相当に飲んだ方で、留学時代はもとより帰国後も頻繁にビール会を開くなど人並み以上にたしなんだ。だが六〇歳以降は酒量を減らし、日本酒は一合、晩酌のビールは小瓶一本にし、その後さらに節制をしてついには一滴も飲まなくなった。
滅多に間食をしない。三度の食事の前にはしっかりお腹を減らし、美味しく食べるよう努めた。今の白米は搗いているのではなく周りを削っているのだと言って、〝半搗き米〟と称する玄米食を実行していた。
若い頃から菜食主義と言っていいほど炭水化物と野菜を主に食べ、老年期に入るといよいよ肉や卵を極端に節制したそうだが、一方で、結構肉を好んでいたという証言もある。
そして晩年凝ったのが、いわゆる〝ホルモン漬〟だ。
新鮮な野菜の花芽や春先の木の芽など、盛んに成長しつつある部位を中心に摘んで入念に水洗いし、細かく刻んで食塩を少し振りかけしばらく石を載せておいたものだ。
塩加減の少ない場合はごま塩や醬油、ソースなどを振りかけて食べる。炊きたての熱いご飯に混ぜたり、蒸しパンやサツマイモ、ジャガイモなどと食べると味が引き立つのだそうだ。
一回一人前が大きなどんぶりに一、二杯というから相当な量だ。これで長年悩まされていた歯槽(しそう)膿漏(のうろう)も完治した。ダイエットにも成功して十九貫(七一・二五キロ)以上あった体重が一三、四貫(五〇キロ前後)の筋肉質な身体に絞り込めた。戦後の食糧が少なく配給制度だった時期も、このホルモン漬で切り抜けた。
と胸を張ったが、彼がホルモン漬の効能に自信を持つのには、あるきっかけがあったのだ。
薪を取りに山へ入った際、力任せに木の枝を引っ張ったはずみに転倒し、運悪く竹の切り株で頬からぐさっと口の中まで突き刺してしまった。大怪我だ。晩年の彼は豊かな頬ひげで知られるが、これはこの時の傷を隠そうとしてのことなのである。
その治療中、院長がしきりと首を傾げた。
「本多先生のようなご年配の方にしては、傷口の回復が早すぎますね」
と言うのだ。
院長は何が原因か知りたくなったようで、静六の日頃の生活を根掘り葉掘り尋ねはじめた。聞き出すうち、結局はホルモン漬のおかげかもしれないということになった。
静六は鼻膨らまして大得意である。
大日本山林会の会報『山林』(昭和一六年三月号)に「ホルモン漬とビタミン及び生長ホルモンの応用」なる記事まで寄稿している。
孫の健一は中高生の頃、歓光荘で夏休みを過ごした。
そんな時は決まって静六と散策に出る。朝九時頃、おにぎりと水筒を持って出かけ、お昼はそれで済まして午後早くに帰る。もう静六は八〇歳近かったが健脚であった。
帰るとすぐに一、二時間昼寝をする。昼寝から起きると畑仕事をし、暗くなると机に向かって書き物をする。
歩くことこそ最高の健康法であると信じていた静六は、
「畳の上では死なない。山を歩き続ける。倒れるまでは」
と言っていたという。
時には、もう一人の孫の三浦道義もやってきた。
ある時、
「今日は御馳走してやるぞ」
と言われたが、すぐに食事が出てくる気配はない。
健一とともに散歩につきあわされた。どこに行くというわけではなくひたすら歩き続け、疲れ果てて歓光荘に戻った時、出された食事は、塩鮭の焼き物と沢庵漬と例のホルモン漬だった。
「どうだ御馳走だろう」
と静六は得意顔だ。
お腹が減っているから、確かに大変な御馳走に感じられた。
「努力と愛の人 本多静六」というエッセイの中で三浦は、その時のことを懐かしそうに回想しながら、〈努力が御馳走を生むのだと身体で教えられたことの一例です〉と記している。
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