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【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #34

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永遠の森34

【清澄寺の千年杉】

第四章 緑の力で国を支える (4)
わが国初の大学演習林(前編)

帝国大学農科大学は、明治三〇年(一八九七)に東京帝国大学農科大学、大正八年(一九一九)に東京帝国大学農学部と改称していく。
だが昭和一〇年(一九三五)に第一高等学校と校地交換して本郷に移るまで、ずっと現在、東京大学駒場キャンパスのある場所にあった。
それはこのあたりが東京では田舎であり、農場が確保できたからである。
日本風とヨーロッパ風農場のほか、茶畑、桑畑、果樹園、放牧地などもあった。だが、さすがに林学を実地に学べる演習林はない。
ターラント山林学校の演習林は豊かな森で、林学を学ぶ場としては理想形であった。そのことを思い、静六は演習林開設に乗り出すのである。

話はドイツ留学から帰国して間もない頃にさかのぼる。
冬休みを利用し、静六は右田半四郎(みぎたはんしろう)(後の東大名誉教授)、小出房吉(後の北海道帝国大学教授)、白沢保美(やすみ)(後の山林局林業試験場長、貴族院議員)ら学生九名を連れて森林視察のため房総半島の南東部に位置する清澄(きよすみ)(現在の千葉県鴨川市)におもむいた。
明治二六年(一八九三)一〇月三日付の官報には〝千葉縣下ヘ出張ヲ命ス〟と発令が出ている。
奏任官ともなれば、任地を離れるのには辞令が必要だったということなのだろう。その後も地方出張のたび、本多静六の名が官報に出てくる。帝国大学助教授の社会的地位の高さがうかがえる。

外房線や内房線がまだなかった頃、南房総の清澄に行くには船が一番便利だった。
と言っても東京湾を横断して内房(おそらく君津)に上陸し、あとは徒歩だ。鹿野山(かのうざん)(千葉県君津市)に一泊し、翌日の夕刻、ようやく清澄に到着した。丸二日の行程であった。
清澄は日蓮宗四霊場の一つで、日蓮が出家した寺として知られる大本山清澄寺(せいちょうじ)があることで知られ、境内には〝千年スギ〟と呼ばれる巨樹がそそりたっている。
周辺地域は暖帯性植物の北限であると同時に温帯性植物の南限でもあり、両者が重複しているために植物相は変化に富み、動物種も豊富であった。
清澄寺の近くにある浅間山(せんげんやま)は標高三六七メートルの小さな山だが、天狗が住むという言い伝えがあるほど鬱蒼と木々が茂っている。

その豊かな森を見て狂喜した静六は、
「私はこの一帯を帝国大学の演習林にしたい!」
と学生たちを前に高らかに宣言した。
静六はまず志を抱き、その後は粉骨砕身、ありとあらゆる努力でその志を達成していくタイプの人間だ。その癖がここでいみじくも出たというわけだ。

帰郷するとすぐ、静六は志賀泰山教授に、清澄に演習林を設置することを提案する。志賀教授は早速濱尾総長にかけあって、その実現に向けて動いてくれた。
濱尾と志賀の深い関係についてはすでに触れた。
文部省の学務局長時代、濱尾は志賀が留学していたターラント山林学校をわざわざ訪問し、ユーダイヒ校長に会い、演習林も視察していた。そのため話はトントン拍子に進んだ。
清澄寺の寺林であった三三六町歩(約三三三ヘクタール)を無償で譲り受け、明治二七年(一八九四)一一月、我が国初の大学演習林(千葉演習林)が誕生することとなった。

だが学内には懐疑的な教授もいる。
「そんな広大な山林をもらって、世話する経費は一体どうするつもりですか?」
静六は彼らをこう言って黙らせた。
「私が学生と一緒に、演習林の管理一切を引き受けますので」
売り言葉に買い言葉。大見得を切るのも静六の悪い癖なのだが、口に出したら守るのも本多流だ。
実は彼には勝算があったのだが、それは次回、詳述することにしたい。

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