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【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #44

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永遠の森44

【禿山だった六甲山】

第四章 緑の力で国を支える (14)
六甲山緑化事業

静六は留学から帰って二年後にあたる明治二七年(一八九四)五月、『大日本山林会報』連載「如是我聞録」の中で米国の植樹祭について触れている。当時の日本人は、この記事で初めて海外に〝植樹祭〟なるものがあることを知ったのである。
そして今でも学校の校庭に〝○○年卒業生一同〟といった札の立てられた木がよく見られるが、我々にもなじみの深い〝記念植樹〟や〝学校林〟設置を推進したのが本多静六であった。
明治三二年(一八九九)、校庭への植栽の具体的な方法を『學校樹栽造林法』という教本にまとめている。
これには少し変わった提案がなされていた。祭日だった四月三日の神武天皇祭に、子どもたちに学校近くの植樹をさせてはどうかというのだ。楽しみながら自然に親しませることができ、木が成長したら〝学校林〟として学校の基本財産とすることもできる。静六らしい一石二鳥の発想であった。
その後も『記念植樹の手引』『記念樹ノ保護手入法』『植樹デーと植樹の功徳』といった著作を出し、講演やラジオ放送等を通じ、広く記念植樹の普及に努めた。
全国植樹祭を運営する国土緑化推進機構の調査によれば、平成二三年(二〇一一)七月現在で約二七〇〇校が合計で約一・八万ヘクタールの学校林を保有しているという。一九七〇年代には約三万ヘクタールだったというから年々減少してはいるが、静六の思いは今なお受け継がれていると言っていいだろう。

静六は帝大キャンパスの緑化にも取り組んだ。
帝国大学農科大学は相変わらず駒場なのだが、本郷には農科大学以外のすべての学部が集まっている。
本郷キャンパスと言えば、正門から続くイチョウ並木が有名だ。
キャンパス内に多くの建造物を残し、〝土木総長〟と謳われた濱尾新は静六にこの並木の造成を依頼したが、その際こう要望した。
「正門を入ったら万人襟(えり)を正すような厳粛な雰囲気にしたい」 
なかなか難しい注文だ。まだ安田講堂がなかった頃の話だから余計である。
だが静六は〝錯覚を利用して実際より奥深く見せる〟という視覚のトリックを用い、明治三九年(一九〇六)、イチョウ並木を見事完成させる。
最初に植えたのは周囲三〇センチほどの苗木であったが、今ではふた抱えもある大木に成長し、秋になると金色の絨毯が正門から安田講堂(大正一四年竣工)に向かって敷き詰められる光景は圧巻だ。
安田講堂横には、濱尾総長の巨大な銅像が建てられているが、彼も泉下でさぞ満足していることだろう。

各地の緑化を推進していった静六は、やがて運命に引き寄せられるように、わが国最大のはげ山の緑化に取り組むこととなる。
それは関西人にとって大変なじみのある、あの六甲山だった。
六甲山とは西は須磨から東は宝塚まで東西約三〇キロにわたる山々の連なりを指し、六甲山地とも呼ばれる。最も高い山が〝六甲最高峰〟で標高九三一メートル。さして高くはないが、巨大な山塊だけに存在感は抜群だ。
当時の六甲山にはほとんど木が生えておらず、白い花崗岩が露出していた。
明治一四年(一八八一)四月、植物学者として知られる牧野富太郎が第二回内国勧業博覧会が行われる東京へ船で高知から向かう途中、神戸に立ち寄ったが、沖から見た六甲山が真っ白で、最初は雪が積もっているのかと思ったという。
日本の総人口は一六〇〇年頃には一二〇〇万人強、一七五〇年頃には三〇〇〇万人強と推測されている。そのほとんどが、エネルギー源として薪や炭を使い、家を作るにしても船を作るにしても木材を使用したのだから、山から木々が消えていくのも当然だった。
平安時代の京を描いた屏風には延暦寺が市内から遠望できる様子が描かれている。比叡山に今のような鬱蒼とした森はなかったのだ。
六甲山の荒廃は、平清盛が大輪田泊(おおわだのとまり)を造った頃にさかのぼる。その後、秀吉の大坂城築城により無立木地が増え、生田川(いくたがわ)や住吉川等の氾濫に悩まされるようになっていく。
とどめをさしたのが慶応三年(一八六七)の神戸開港だ。もともと狭い神戸の地に居留民をはじめ続々と移住してきて開発が進んだ。
多くの人口を支えるためには水道の整備が必要だ。だが神戸には細い川しかなく水源がない。目をつけたのが景勝地として知られる布引(ぬのびき)の滝の上流だった。
再度山(ふたたびさん)から摩耶山(まやさん)にかけての水を集めて流れる生田川が布引谷を通る。そこをせきとめて明治三三年(一八九七)、布引貯水池が完成した。高さ三三メートルの日本最古の重力式コンクリートダムによる画期的な貯水池であった。
ところが山が荒廃しているから保水力がない。保水力がないから貯水池に水が貯まらない。水源林の造成が急務だった。
神戸市は、その指導を斯界の権威に委嘱する。それが本多静六だった。

明治三二年(一八九九)九月、神戸を訪れた静六は、目の前に広がるはげ山同然の光景を目の当たりにして大きな衝撃を受けた。
「まるで地獄谷だ…」
そうつぶやいたと伝わっている。
彼はよく講演で〝山高きが故に尊からず、木あるをもって尊しとする〟という『実語教』の一節を引用したが、木を大切にしていた彼にとって目を覆う惨状だったのだ。
この時、彼は神戸商工会館に五〇〇名の地元名士を集め、水源林造成の必要性についての講演を行っている。地元の支援がなければ緑化事業は成功しないからだ。
そんな中、明治三四年(一九〇一)に第二代神戸市長に就任したのが坪野平太郎であった。
ドイツに留学する際、時折一等船室から来て励ましてくれた、あの親切な人物である。欧州から帰国して役人として活躍した後、銀行役員などを経て、四二歳の若さで第二代神戸市長に就任したのだ。
坪野は信念の男だ。
「やるとなったら何が何でもやり遂げたい。是非手を貸してくれ!」
そう語る坪野に、静六も腕が鳴った。

明治三五年(一九〇二)一月、東大農学部の御雇外国人で砂防工事の専門家であるドイツ人カール・ヘーフェルを伴って、再び現地調査を行った。
この時、ヘーフェルは修法ヶ原(しおがはら)(現在の神戸市北区山田町)の山肌を見ながら、
「水源地の周囲をよくもここまで裸地にしたものだ。これほど荒廃した山は世界中探しても類がない。来年、大阪で開かれる内国勧業博覧会にでも出展したらどうか」
と皮肉ったという。
ひどい惨状であることは見ればわかる。問題はどう緑化していくかだ。ヘーフェルは林学者ではあったが日本の造林は専門外だ。
当時、静六は東京の水源林造成にも取り組んでいたが、六甲は寒冷な奥多摩とは環境が違う。ここでも彼は、前人未踏の事業を自らの工夫で乗り越えていかねばならなかった。
六甲山のある土地は本来、シイやカシなどの広葉樹が中心であるはずだが、少し残っている木はアカマツばかり。だからといって、いきなりシイやカシを植えても地味が痩せているから枯れてしまう。
そこで、まずはアカマツを植えて落ち葉による腐葉土を増やし、やがてアカマツが他の広葉樹や常緑樹に置きかわっていくのを待つというシナリオを立てた。
こうして明治三六年(一九〇三)、六甲の西北部に当たる再度山(ふたたびさん)の斜面から植林を開始した。
この山の名は空海が入唐するにあたって船旅の無事を祈って登山し、帰国後、無事帰国できた感謝を込めて再度登山したことに由来している。だが静六からすれば、〝山の緑よ再び〟という思いだったに違いない。
風致林(森林法に定められた保安林)の指定をした地域を増やして木々を保護しながら、マツの下地として桔梗(ききょう)、刈萱(かるかや)等を傾斜の緩やかなところに広く栽培し、必要に応じて楓、つつじなども植えた。石積みをして腐葉土が流れてしまわないよう段々畑のような仕掛けを作る念の入れようだった。

「土地に惚れ女房に惚れてその上に 仕事に惚れるひとは仕合」
という言葉を残している市長の坪野は、力強く静六の仕事を支えてくれた。
彼は約四年間市長として在職した後、一旦この地を離れたが、関東大震災の後、再び神戸に移り住み、大正一四年(一九二五)、思い出深いこの地で永眠する。
現在の緑濃い六甲山は、坪野と静六の友情の賜物だったのである。

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