【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #61
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【本多静六と銓子夫妻】
第五章 人生即努力、努力即幸福 (7)
銓子の死
ある日、銓子が静六に折り入って相談があると言ってきた。
「この間、以前世話をした苦学生がやって来まして、肋膜炎で二、三ヵ月転地療養の必要があると医者に言われたそうなんです。なんとか助けてあげたいので、日光行きのお金を用立ててあげてもよろしいかしら」
〝日光行きのお金〟というのは、銓子がまだ日光に行ったことがないというのを聞いた静六が、
「〝日光を見ずして結構と言うな〟という。お前も〝結構〟と言えないままでは可哀想だ」
と、日光への旅行代として渡してあった五〇円のことであった。現在価値にして二〇万円ほどであろうか。
徳川家康を祀る日光東照宮が、旧幕臣である本多家にとって格別の場所であることからの配慮だったに違いないのだが、当の銓子がその金を用立ててあげたいというのだ、静六に反対する理由はない。
「それは好きにするといいが、それだけでは不十分だろう。僕の服を作る予定の分もやろう」
と二人で一〇〇円にして学生に渡してやった。
その後その学生は丈夫になり、立派に卒業して家庭も持て、ついに博士となった。静六は後にこの思い出を『幸福成功 処世の秘訣』の中で披露し、〈そのことは私たちのもっとも楽しい思い出の一つである〉と記している。
結局、銓子は日光に行けずじまいになってしまうのである。
銓子は四三歳ごろから慢性腎臓病を患っていた。ようやく四分の一天引き貯金で利子が給与を上回るようになり、少し生活が楽になり始めた頃のことである。
彼女は医師だ。自分の病状は自分が一番よくわかっている。当時の医学水準では、回復が絶望的であることも。
運の悪いことに、本多家にもう一人病人が出てしまった。晋である。大正一〇年(一九二一)九月、胃癌であることが判明し、療養生活が始まった。一人娘の銓子が父を思う気持は推して知るべしである。自ら病身でありながら無理をして看病にあたり、それがもとでこの年の一二月二〇日、脳溢血を起こし、昏倒してしまうのである。
その知らせを聞いて、急ぎ駆けつけてきたのが竹内茂代であった。彼女は自分の医院を臨時休業にした上で、それからの五日間というもの不眠不休で治療に当たってくれた。
だが祈りもむなしく、一二月二五日、銓子は天に召されるのである。
気をつけて養生していたからだろう。慢性腎臓病が発覚してから一四年間生きながらえた。五七年の見事な生涯であった。彼女に医師になる道を開いてくれた高木兼寛はこの二年前に他界していたが、持病も死病も彼女と同じだった。
命日が一二月二五日というのは敬虔なクリスチャンであった彼女らしいが、本多家にとっては悲しいクリスマスとなった。
愛娘の死に力を落としたのだろう。晋も後を追うように翌二六日、息を引き取っている。数えで喜寿を迎えたばかりだった。
生前、晋はこんな辞世の歌を残していた。
かはりぬる世に兎(と)に角もなからへて
思い出おほきよみの旅哉(かな)
大切な家族を次々に失い、家の中は火が消えたようになった。
ドイツ留学ができたのは義父晋のおかげである。そして四分の一天引き貯金などという破天荒なことが実行できたのは妻銓子の努力と工夫あってのことだ。本当は医師の仕事を続けたかっただろうが、それをやめてまで息子や娘たちを立派に育ってくれた。感謝の言葉もない。
晋と銓子父子の支えなしに今の自分はない。長いようで短かった三二年間を噛みしめながら静六は男泣きに泣いた。
銓子の遺影には、竹内茂代の結婚式に夫婦そろって出席した際の写真を選んだ。女性医師の未来を彼女に託した銓子にふさわしいものだった。墓碑には銓子の名の横に〝女醫 静六妻〟と彫られている。
銓子は遺言を残していた。それは竹内茂代が第一期卒業生となった東京女子医学専門学校(現在の東京女子医科大学)に奨学金を設けたいというものだった。
静六は銓子の遺志に従い、懸命に治療に当たってくれた竹内への感謝の気持ちも込め、同校に額面一〇〇〇円の帝国公債を寄付した。そして利子の半額以下を運用して本多銓子奨学金を創設し、後進女医の育成にあてるよう求めた。
一〇〇〇円というと、当時の内閣総理大臣の月給くらいだから、現在価値にして四○○万円といったところだろうか。金利はおそらく六%ほどだったはずだから初年度の金利は年二四万円。そのうちの半分というと初年度は月一万円程度の支援をおそらく一人の奨学生に行ったと思われる。だが残りの金利は基金に組み込まれ、複利で運用される。静六からすれば、将来に対する種を蒔いたつもりだった。
だが残念なことに、現在の東京女子医科大学に本多銓子奨学金は引き継がれていないし、HPで本多銓子奨学金があったことにも触れられていない。おそらく戦後のハイパーインフレーションの中で、額面一〇〇〇円という国債の資産価値が暴落してしまったからではないかと推察するが、寂しい限りである。
だが銓子の植えた苗木は確実に育っていた。
竹内茂代は銓子の死の一二年後、東京帝国大学で医学博士号を取得する一方、市川房枝らとともに婦人参政権運動に参加。戦後、衆議院議員に当選した三九名の女性代議士のうちの一人として女性の地位向上に尽力する。
彼女は銓子の思いを、医学の世界だけでなく、政治の世界でも継いでくれたのである。
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