【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #04
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第一章 勉強嫌いのガキ大将 (2)
折原家と不二道孝心講
静六の祖父折原友右衛門は傑物であった。
静六はこの祖父に最も大きな影響を受けたことを、自叙伝『体験八十五年』の中でわざわざ言及しているほどだ。
そんな友右衛門には深く信仰しているものがあった。不二道といい、江戸時代隆盛を極めた富士講の流派の一つである。
多種多様な神仏を敬う日本人の宗教観は、およそ世界の常識とはかけ離れているが、江戸時代はそれが顕著であった。幕府はキリスト教を禁止していただけで、民間信仰については寛容だったのだ。
庶民は信仰と娯楽を兼ね、お伊勢参りや善光寺参り、金比羅参りなどに出かけ、出羽三山、戸隠山、大峰山などの山岳信仰も盛んで、富士山も多くの参拝者を集めていた。
河原井村から富士山が見えることは先述したが、今と違って空気が澄んで高い建物のない時代、関東一円からその優美な姿を見ることが出来た。富士山を神聖なものとする信仰は従来からあり、富士山をご神体(浅間大神)とする浅間神社は一三〇〇あまりの末社を持っていた。
浅間大神の本地仏が大日如来であるとの本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)が広まったことをきっかけに、鎌倉時代には富士山の山頂に大日寺が建立され、明治維新後の廃仏毀釈で一掃されるまでは多くの仏像が安置されていた。
友右衛門はただ信仰するだけでなく、指導者になり、晩年には不二道孝心講第一〇世大導師になっている。
静六は幼いころ、毎晩曾祖母のやつに抱かれては、不二道御法会の歌を子守唄代わりに聞かされながら眠った。代表的なのが「母父の御恩礼」である。
――母父の御恩の深き御恵みを 寝ても覚めても忘るなよ
まず朝起きて身を清め 元の母父を拝みつつ
親の仰せをそむきなく 手習いぬい針精出して
その身その身に備わりし 家のつとめを怠らで
夫婦仲よく睦まじく 兄を敬い弟を
憐れむ心深ければ 友と交わり誠あり
世のよしあしを振り捨てて われさえ勤め行くならば
天の冥加(みょうが)にかないつつ 子孫も栄ゆくことわりを
幼な心に忘れなく 生い立ちたまえ御子達よ御子達よ
折原家ではこの「母父の御恩礼」を朝な夕な家族そろって歌うことが習わしとなっていたが、静六は三歳頃にはもうすっかり歌えるようになっていた。
〝三つ子の魂百まで〟のたとえ通り、静六の考え方や行動には不二道の影響が色濃く反映されている。そこでこの教えについて少し詳しく説明することにしたい。
そもそも富士講は、富士の山霊から災難除けや病気を治す御利益をいただこうとする民間信仰である。
富士登拝の際には白装束に身を包み、講の名前を墨書した菅笠を持ち鉢巻きをし、杖をつく。山麓には修行の場もあり、富士宮市の人穴(ひとあな)富士講遺跡は、現在、富士山と共に世界文化遺産に登録されている。
信者はしばしば地元に富士塚を造った。これを〝ミヤマウツシ〟と呼ぶ。塚の山頂に富士山の溶岩などを埋め、富士登拝を疑似体験できる遙拝所としたもので、今でも都内を含め各地に残っている。
大行者と呼ばれる教主をトップにしながら地域ごとの枝講に分かれ、一時は富士講八百八講と呼ばれるほど多くの講が生まれた。
第四世大行者のとき二派(村上派と身禄派)に分かれ、身禄派第八世大行者の小谷三志(道号・禄行(ろくぎょう)三志)が開教したのが不二道だったのだ。
小谷は武蔵国足立郡鳩ケ谷宿(現在の埼玉県鳩ヶ谷市)で代々麹屋を営む裕福な商家の出である。夫婦和合、家業出精、倹約勤勉、相互扶助などの日常的道徳実践を説き、「幸も不幸も自分がつくる。自分の生き方が大切」として、御利益を求めていた富士講を変革し、教理を持った教団に改革していく。
それは自らが幸福で家族を安心させ、周囲の人に喜ばれて信頼される人間になるという教えであり、二つとない教えであるという意味で〝不二孝(道)〟と名付けられた。
信仰を深め克己心を涵養するべく、さまざまな〝行(ぎょう)〟が行われた。米飯に塩のみをかけて食事する塩菜(しおざい)行、酒・煙草断ち、冷水をかぶる水行など。そのほか社会への報恩を示すため、道路・橋・堤防などの土木改修工事も〝行〟として無償で行い、不二道ではこれを〝土持(つちもち)〟と呼んだ。
小谷はしばしば京都に赴いて姉小路家や九条家といった公卿たちにも講話を行い、長崎にも布教の足を伸ばした。長崎ではオランダ商館でオランダ人にまで説法するなどして信者を増やし、教えを世界に広めようとした節さえある。
積極的な布教活動に加え、教えのわかりやすさから共感した人は多く、不二道の信者は関東から九州に及び、その数五万人とも十万人ともいわれるようになっていった。
そして七代目折原長左衛門もまた晩年になって小谷の法話を聴き、その教えに感激して入信する。寺請制度があったから引き続き幸福寺が菩提寺ではあるが、こうして不二道は折原家代々の信仰となるのである。
土木工事でつちかってきたノウハウも〝土持〟の行で生きた。長左衛門は弘化四年(一八四七)二月、二〇〇名の信者を集め、箕輪橋(現在の埼玉県さいたま市岩槻区)から橋戸大橋(現在の埼玉県川口市南区)までの一〇キロほどの道普請を行っている。
行を行った際には、〝行帳〟と呼ばれる帳簿に「塩菜行十日間何某、煙草断十日間何某……」といったように記し、記録を残していく。それが彼らの励みでもあった。そして行によって倹約した〝余徳〟は、富士登拝などにかかる費用や信者間相互扶助のための蓄えとなったのである。
不二道には宗教的な教義もあった。
万物の創造主である〝元(もと)の母父(ははちち)〟のもとに〝天の三光〟である日、月、星を置き、さらに天子と天日(天皇と将軍)が一体となって世の中に恩を与えていると説く。そのため彼らは皇室と幕府を崇敬の対象とした。
天保一四年(一八四三)の将軍家慶による日光社参の際は、全信者が穀断、塩断、酒断、煙草断の行を自らに課し、参詣の一行に草鞋(わらじ)、糠(ぬか)、大豆などを献納した。文久三年(一八六三)の将軍上洛の際にも同様のことを行っている。
小谷は四民平等、男女平等を重要視した。陰である女性は水のように下がるものであり、陽である男性は火のように上がるもの。和合を考えるなら陰を陽より優先すべきとし、陰陽の価値の逆転を説いた。
静六が曾祖母から子守歌代わりに「母父の御恩礼」を聞いて育ったことは先述したが、父母でなく〝母父〟となっているのは母性を尊ぶ小谷の教えからであった。
小谷は女性差別を嫌悪し、信仰の核である富士登拝のあり方にも疑問を呈した。当時は二合目より上は女人禁制だったのだ。これを既成事実で崩していこうと考えた彼は一度二合目より上に女性信者と登ったが、やはり頂上までいくのは女性にはきつく、途中で断念した。だがやはり頂上を極めねば世の中は動かない。
今度は用意周到に準備し、初の女性登拝に挑んだ。
登ったのは江戸深川の商家の娘たつ(当時二五歳)。小谷は彼女にちょんまげを結わせて男装させ、荷物を担ぐ強力(ごうりき)を連れ、わざわざ秋の閉山後に登拝したのだ。現代でも極めて危険な行為である。案の定、途中で吹雪に阻まれ、頂上を目指すのは無理だと判断したが、彼女は気丈にも、
「女性に門戸を開くため、一命を賭してでも頂上を目指します」
と下山を拒んだ。その意気に感じた強力が協力してくれ、見事登頂に成功する。天保三年(一八三二)九月二六日夜のことであった。
下山する際には遭難寸前になり、草履は破れ足は傷だらけになっていたという。
後にたつはキリシタン大名として知られる高山右近の子孫である高山万次郎と結婚し、高山たつとなる。富士山の女人禁制が解かれたのは、明治五年(一八七二)三月のことであった。たつの登拝後、なお四〇年の年月を必要としたわけだが、彼女はその日を生きて見ることができ、明治九年(一八七六)にこの世を去った。
こうした小谷の教えに心酔していたのが静六の祖父友右衛門であった。
彼の不二道における道号は由行三ゝ(ゆうぎょうさんざん)という。〝ゝ〟は、師である小谷の教えを守ってついていきますとの誓いを意味していた。静六の父長左衛門に、長男でありながら禄三郎という通り名をつけたのも、小谷の道号である禄行三志から来ていると思われる。
だが小谷三志は天保一二年(一八四一)九月一七日、鳩ケ谷の自宅でこの世を去る。
小谷の跡目は京都醍醐理性院の院主行雅(ぎょうか)僧正が継いで第九世大導師となり、不二道の本拠は鳩ケ谷から京都に移り、教義を神道にそって改変する作業が進められた。
小谷の教えをそのまま継承していこうとする友右衛門たち直弟子の多くはこの動きを承服せず、鳩ケ谷派を形成する。そして慶応二年(一八六六)六月、小谷三志の子三子が亡くなると、友右衛門が鳩ケ谷派の実質的指導者となった。
そんな友右衛門に試練の時が訪れる。明治政府が出した神仏分離令である。
結局、政府は富士講や不二道を神道教団として認めたが、友右衛門たち鳩ケ谷派は政府の方針におもねることをよしとしなかった。
そのため、明治五年(一八七二)三月一日の書状で富士講トップの大徳寺莞爾(行雅)教主より友右衛門らに〝破門〟が予告され、それでもなお態度を改めない彼らに対し、九月二一日、ついに〝絶縁〟が通告された。
ことここに至って、小谷三志の教えを遵守したい鳩ケ谷派は友右衛門を中心として不二道孝心講を立ち上げる。
静六の強情さは、この友右衛門譲りなのかもしれない。
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