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【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #76

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思い出深い奥秩父を再訪する静六

最終章 若者にエールを送り続けて (9)
身近な者の相次ぐ死

高齢になって寂しいのは、身近な人が次々と鬼籍(きせき)に入っていくことである。
後藤新平もそのうちの一人だった。
伯爵にまでなり再三首相候補に上ったが、ついにその地位に就くことはなかった。元老の西園寺公望(さいおんじきんもち)とそりが合わなかったことと、軍人が幅をきかす時代が来ていたためである。
政界引退後も東京放送局(現在のNHK)初代総裁、少年団(ボーイスカウト)日本連盟初代総長、拓殖大学第三代学長などを歴任。二度の脳溢血発作を乗り越えて厳寒のソ連を訪問し、スターリンと会談するなど健在ぶりを示していたが、昭和四年(一九二九)、日本性病予防協会総会に出席するため岡山へ向かう途中で三度目の脳溢血発作に倒れ、四月一三日、京都で死去した。七一年の生涯であった。
静六が後藤と最後に会ったのは後藤の亡くなる年、新潟の赤倉温泉でのことである。ドイツ留学時代にはじまって思い出は尽きない。若い日の話をしてお互い若返った気がしていただけに、訃報を聞いた時には信じられない思いで一杯だった。
後藤はこんな言葉を残している。
「金を残して死ぬ者は下、仕事を残して死ぬ者は中、人を残して死ぬ者は上」
そういう意味では、ほとんどの資産を寄付し、多くの仕事を残し、優秀な教え子を世に送り出し、人々に人生の知恵を伝え続けている静六の生き方を、あの世で後藤は、
「本多の人生は〝上の上〟だ!」
と言ってくれたに違いないのだ。

その後も訃報は続いた。
長い間、郷土の先輩として仰ぎ見ていた渋沢栄一も、昭和六年(一九三一)一一月一一日、帰らぬ人となった。満九一歳の大往生であった。
この稀代の傑物に愛されたことが、静六にとってどれだけ幸せなことであったか計り知れない。一方で渋沢も静六に対し、後生畏(こうせいおそ)るべしとでもいうような頼もしさを抱いてくれていた。それは埼玉学生誘掖会設立の際、彼の目の前に三〇〇円を置いて覚悟を示した日からずっとであった。
明治神宮建設の際は渋沢の代々木案に反対して心労の種を作ったが、信頼関係にひびは入らなかった。帝国森林会設立の時には趣旨に賛同して応援してくれた。設立してすぐ会員になってくれた彼は、死去するまで会員であり続けた。それは静六に対する信頼の証である。
渋沢は社会事業として養育院の院長をしていたが、大正一五年(一九二六)の正月、子どもたちを前にしてこんなことを語っている。

「皆さんに耳よりのお話をいたしましょう。私の懇意な本多静六さんというお人が先だって私のところへ来られて、種々談話中『英才は富豪の家には生れずして、貧苦の人の中から生れる』ということを申された。皆さんにこう言うと失礼かも知れないが、養育院に入る者は富裕な者ではない。しかし本多さんの話にしたがえば、諸君らは成功すべき素質をもっておる人達である。古いことわざに『艱難汝(かんなんなんじ)を玉にす』というのがあるが、本多さんの話が真理であれば、皆さんはかえって好い位置にいるのです」

『東京市養育院月報』第二九四号

渋沢は次世代に希望を語るのに、静六の言をもってしたのである。
渋沢の告別式に際して、静六は埼玉学生誘掖会を代表して弔辞を読んだ。万感胸に迫るものがあった。
渋沢から最後に依頼されたのは、死の前年の昭和五年(一九三〇)九月、ハワイに日本の桜を贈ることの可否について意見を述べて欲しいというものだった。
静六は正直に話した。
「四季のないハワイでは桜の開花を楽しむことはできません。もし移植できたとしても、早晩葉桜になってしまいます。ハワイは多くの花が咲き乱れる土地です。もし贈ることができたとして、ろくに花の咲かない桜を贈って声望を落とすのはいかがなものでしょう。それにアメリカ本土への日本の苗木の輸入は厳禁となっており、ハワイも同様かと思われます」
結果は残念なものだったが、最後の最後まで国際平和に思いを致し、日米開戦を防ごうと努力したこの巨人の偉大さに、今さらながら胸打たれる思いだった。

東京山林学校時代以来の親友二人も、河合鈰太郎は昭和六年(一九三一)三月に、川瀬善太郎は昭和七年(一九三二)八月に、相次いで他界する。
河合は晩年糖尿病を患い、台湾で罹患したマラリアの影響もあって体調を崩しがちであった。そうこうするうち昭和六年一月に罹った風邪が肺炎になってしまい、三月一四日午後一時、息を引き取った。まだ六五歳の若さだった。同月二七日には台湾の嘉義(かぎ)市にある嘉義公会堂において追悼式が行われ、地元の人々も〝阿里山の父〟との別れを惜しんだ。
静六にとって、東京農林学校の学生寮で同室だった時代からの親友だ。結婚も留学も先にして申し訳ないと思った彼は銓子に頼み、河合に女性を紹介している。それが河合の妻保子であった。
台湾での森林開発事業では大変な思いをさせてしまったが、後世に残る立派な仕事をしてのけてくれた。静養するよう医師から言われてからも、河合は死の間際まで研究を続けていたという。そんなすごい男を友人に持てて、誇らしい思いで一杯だった。

そして川瀬が倒れたという知らせを受けたのは、翌昭和七年の八月二八日のことであった。
午後九時頃、急に座り込んで動けなくなったというのだ。脳溢血だった。この時、川瀬は七一歳、大日本山林会長在職中のことであった。
まだ渋谷に住んでいた静六は、急いで世田谷区池尻の川瀬邸に駆けつけた。すでにグーグーいびきをかいていて意識はない。聞けばその日の夕食に静六が贈った果物をうまいと言って食べていたという。
静六は夜通し枕もとに座り、友の横顔を見つめ続けた。
川瀬は大酒飲みであった。
「いい加減にした方がいいぞ」
と注意すると、
「好きな酒をやめてまで生きていようとは思わない。うちは両親ともに脳溢血で逝った。父は五七の時、役所の出勤途中で、母は五六で洗濯しながら倒れたから自分も覚悟している。幸いもう両親よりずっと生きたからこれ以上長生きしようとも思わない。死ぬ時には俺もひと思いに脳溢血で死にたいよ」
というので静六も思わず、
「それは理想的な死に方だな」
と納得しかけ、
「それじゃ本多も大酒を飲め!」
と言われて苦笑したこともあった。
大日本山林会や帝国森林会も含め、明治神宮造営、農林審議会、伊勢神宮神地委員など、ほとんどの仕事を一緒にやってきた。思い出は尽きない。
そうこうするうちやがて朝を迎えた。そして午前九時頃、いびきがやんで静かになったなと思って確かめてみると、心臓が止まっていた。
(言っていた通りになったな。見事な人生だった)
いろいろな感情が溢れてきて涙になり、やがて嗚咽(おえつ)になった。
川瀬は生前、大日本山林会や南葵育英会(紀州藩の育英組織)に多額の寄付をし、自分の墓も建てて静六に、
「葬式をするだけの用意はしてあるから安心しろ」
と言っていたが、大日本山林会の会長在任中の急逝であったことから、告別式は会葬として営まれた。
青山斎場で行われた葬儀では、帝国森林会会長だった静六に加え、静六の娘婿の三浦伊八郎も大日本木炭協会理事として弔辞を読んだ。正三位勲二等旭日重光賞が贈られている。
静六は『山林』川瀬博士追悼号に「川瀬善太郎君を偲びて」という一文を寄せ、こう述べている。

〈頼りにもして来た川瀬君に死なれ、意気地がないやうだが、気落ちがして数日間家の中で寝転んでぼんやりと考へ込んで居た。(中略)友人の私から見れば君を学者として終らせたのは実に惜しかつた。若しも政治家として立つたのなら、必ず大臣になつて居たらうし、風雲に際會して居たならば総理大臣ともなり得る資性を充分に備へた大人物であつた〉

『山林』川瀬博士追悼号

生涯、同級生でありながら兄貴分として敬慕していた川瀬への正直な気持ちだった。
ちなみに川瀬の二年後、あの志賀泰山も喘息(ぜんそく)に苦しんだ末、脳溢血で亡くなっている。七九歳だった。銓子や後藤新平もそうだったが、高血圧に効く薬のない当時、日本人の死因で肺炎と結核に次ぐのが脳溢血だったのである。
すでに触れたが、折原家を守ってくれていた兄金吾も昭和一三年(一九三八)一〇月二八日に死去している。八二歳であった。その二ヵ月後の一二月二八日には、父親代わりになってくれていた益田孝も他界する。満九〇歳であった。
静六は日頃、魂魄の不滅を信じていると公言していたが、それでも知人の死がショックでないはずはなかった。

だが静六にとっての本当の悲劇は、その後に待っていたのだ。
それが愛弟子本郷高徳の死であった。
元々病弱だった本郷には、戦後の食糧難はこたえたに違いないのだ。自分の命数が尽きかけていることに気づいた彼は回顧録『吾が七十年』を書き始めたが、それを完成させるだけの時間は残されていなかった。
疎開先だった妻の実家白石家のある埼玉県桜田村(現在の久喜市鷺宮)の迦葉院(かしょういん)という寺で、昭和二四年(一九四九)四月二一日、この世を去った。七二歳だった。戒名は彼の業績にふさわしい院殿号で、仁恵院殿鶴翁高道淳徳居士。今は多磨霊園で静かに眠っている。
老人にとって死の連鎖ほど辛いものはない。しかし本郷の死は、本当に命が削られた気がした。彼はその後も従来通りの生活を過ごし、人生一二〇歳に向けて気を取り直して頑張っていくのだが、写真を見ると、ぐっと老け込んでいるのがわかる。
本郷の死はそれほど応えたのだ。

本郷の死の翌年(昭和二五年)の七月、静六は埼玉県知事からの招請により、奥秩父の地を三五年ぶりに再訪する機会を持った。
同月、秩父多摩地域一帯が国立公園に指定され、前年には中津川の県有林事務所前に静六が寄贈した県有林の記念碑が建てられている。そうしたことを記念し、かつ多大なる貢献に感謝して埼玉県側が企画した視察旅行であった。
静六はこの時八三歳。さすがに老いは隠せない。
林務課の担当者に、隔日で休養を入れるなど楽な日程にするよう要望し、食事については、「うどんかそば、または粥と味噌だけで結構です」
と指示している。
娘たちが特別に了承したのか、それとも黙って強行したのかは定かではないが、ともあれこうして一二泊一三日の視察旅行に出かけることとなった。
この時の写真を見ると、杖をついて白いひげが伸びてまるで仙人のよう。深山にいるから余計である。途中で昼寝している静六の写真もある。
だが頑張って足を運んだ甲斐はあった。自分の植栽したスギやケヤキが立派に育っている様子を見て、静六は感激の涙を流した。
自分の人生が、大きな実りをもたらしたことを実感した瞬間だった。

(次回・最終回は9月16日更新予定です)

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