【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #12
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【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #12

前回「第二章 暗い井戸の底をのぞき込んだ日 (4)」はこちら

永遠の森12

第二章 暗い井戸の底をのぞき込んだ日 (5)

一度は揺らいだ林学への志

明治一九年(一八八六)七月、東京山林学校は駒場農学校と合併し、新しく東京農林学校となって、西ヶ原から駒場に引っ越すこととなった。
これにより日本初の総合的な高等農学教育機関が誕生したことになる。そう言うと体裁はいいが、実際には政府の財政難が背景にあった。要するに統合による運営コストの圧縮が狙いだったのだ。
だが静六は嬉しかった。駒場の寄宿舎は二階建ての洋風建築。ベッドもこれまでのような蚕棚式ではなく個別の寝台になり、出世したようないい気分だった。

東京農林学校の初代校長には元駒場農学校長の前田献吉、幹事には元東京山林学校幹事の奥田義人(後の文部、司法大臣、東京市長)が就任した。
校長の前田献吉は元薩摩藩士で、東郷平八郎とともに春日丸に乗船して戊辰戦争を戦った剛の者だ。若い頃に留学費用を稼ぐため、弟の前田正名(後の農商務次官、男爵)や高橋新吉(後の日銀総裁)と英和辞書(『薩摩辞書』)を編纂し、これを高値で売ってアメリカに渡る資金とした逸話は広く知られている。
東京農林学校の校長は前田献吉の後、高橋是清(後の首相、蔵相)、前田正名と続く。錚々たる面々だ。
学校の合併当初は双方の間にちょっとした距離感があったので、池上本門寺で運動会をやることになった。幹事の奥田が五〇円を寄付してくれ、盛大な会になった。生徒の融和も進み、翌年には二回目を駒場でやることになった。
移転してすぐの九月二九日から四日間、両校生徒の編入試験が行われ、静六は予科三年に編入されることとなった。入学三年目なのだから順当なところだ。中には振り落とされ、下の学年に移った者もいた。

同学年の友人に川瀬善太郎と河合鈰太郎(かわいしたろう)がいた。
静六は晩年の著作である『努力論』の中で、

〈真の友人はただ二人だけであった。それは河合鈰太郎と川瀬善太郎の両氏で、山林学校入学以来、両氏が死ぬまでの親友であった。私たち三人の性格は極端に違っていたが、それがかえってお互いの弱点を補うことが多かったようである〉

と記している。
ちなみに川瀬は静六の四歳年上。紀州藩士の子弟で、入学前すでに小学校校長や郡の視学(戦前の教育行政官)を務めていたくらいで、調整能力にたけた才人であった。それをかわれて後に東京帝国大学農学部長や大日本山林会会長に就任するなど、日本の林学の草創期を静六とともに支えた立役者だ。
一方の河合は一歳年上。農林学校時代は寄宿舎も同室で、静六にとって一番親しい友人であった。天才的な学者肌で詩文が巧み。英独の語学にも通じ、暇を見つけてはゲーテの著作やギゾーの文明史を耽読していた。造林学の静六の初期の著述は河合に校訂を頼んでおり、学問の面でも大変信頼していた。後に河合は日本統治下の台湾の森林開発に手腕を発揮して〝阿里山(ありさん)開発の父〟と慕われ、台湾には今も顕彰碑が残っている。

静六たちは語学や高等数学などの一般教養を一年やった後、翌年には本科生となった。明治二〇年(一八八七)一二月には学科制が採用され、本科の中に農科、獣医科、林科、水産科が設けられた。静六はもちろん林科である。日本語のほか、英語、ドイツ語でも授業が行われた。
静六は本科一年の時は次席で、二年のときは首席となっている。エキス勉強の成果により、彼の優秀さはすでに際立っていた。
トップクラスの成績であるにもかかわらず、いやトップクラスの成績だからこそかもしれないが、静六の林学への思いが一度大きく揺らいだことがある。
そもそも静六は、将来何になりたいということ以上に、とにかく勉強したいから授業料の安い山林学校に入ったわけだ。校内には同様の人間も多い。すると途中で、ちょっとこれは自分の思っていたのと違うということが起こりがちだ。そのため少なからぬ人間が途中で転校していった。
そもそも静六が山林学校に入学したのは島邨が勧めてくれたからだったが、この頃、島邨が急逝していた。このことも進路を考え直す気になった一因であった。
軍人は当時の男子にとって憧れの的だ。それだけに優秀な人材が集まっていた。静六もすっかりその気になり、親友の河合を誘って士官学校に移ろうともちかけた。
河合もその気になりはしたが、独断では決められない。河合は静六同様、苦学生だった。元尾張藩士が中心になった設立した育英会である愛知社から毎月六円の奨学金をもらってなんとか学業を続けてきたのだ。
「保証人でもある愛知社理事の水野遵(みずのたかし)先生にお聞きしてみないといけないが、きっと先生は不承知だろう」
そう言って河合はしり込みした。
水野は海軍軍人で台湾出兵にも従軍し、後に台湾民政局長、貴族院議員を歴任した人物である。島邨もそうであったが、当時はこうした人物が郷土の有為な若者たちを経済的に支え、人生を歩む上での助言をするという美風があったのである。

すると静六は、
「よし、それなら僕が談判に行く。水野先生は軍人なのだからわかってくれるよ」
と大胆なことを言い出し、河合を連れて強引に出かけていった。
ところがいきなり水野から頭ごなしに叱り飛ばされてしまう。
「学校を途中で取り替えるような意志薄弱な学生は、どうせ次の学校も満足に卒業できやしない。本当に士官学校に入りたいなら、まず今の学校を立派に卒業した上でやりたまえ」
水野は軍人らしく、八の字ひげのりりしく豪傑然とした風貌の持ち主だ。言葉にも迫力がある。反論するには勇気がいったが、それでも静六は頑張って一言は返した。
「それでは学資が続かなくなります…」
「その場合はこの水野が出してやる!」
ここまで言われては万事休すだ。気合い負けしてしおしおと寮に帰り、転校の話はそれきりになった。
静六は後に振り返って水野に感謝し、若者の面倒をみようという場合、なにかあったら自分が金を出してやるくらいのことを即答する、水野ほどの度量が必要だと語っている。こうして水野はある意味、静六の将来の目標となっていくのである。

余談ながら、この時、学校を辞めた同級生の尾野実信(おのみのぶ)は、その後陸軍大学校を首席で卒業し、陸軍大将になっている。
続けるのも人生、辞めるのも人生。水野先生の説得が正しかったのかどうかは誰にも分からない。しかし迷いを絶つことは大切だ。決めた道をひたすらに行くことで初めて人は大成できる。
その意味では、やはり水野先生も静六の恩人だと言えるだろう。

(次回は6月25日更新予定です)

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