【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #45
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【現在の緑あふれる六甲山】
第四章 緑の力で国を支える (15)
赤松亡国論
アカマツしか残っていなかった六甲の惨憺たる様子は、彼に強い衝撃を与えた。
そして明治三三年(一九〇〇)、『東洋学芸雑誌』第二三〇号に「我国地力ノ衰弱ト赤松」という題名で論文を発表する。
静六の博士論文『日本森林植物帯論』の温帯林の説明の中に、すでに〝赤松林の跋扈(ばっこ)〟という表現がある。従来からアカマツは危険なサインだと思っていたが、六甲の惨状を見てそれが確信に変わったのだ。
一般的に、暖帯地域ならシイ、カシといった常緑広葉樹が、温帯地域はブナ、ミズナラ、シオジといった落葉広葉樹が天然林を形成する。こうした本来あるべき状態を第一期林相と呼ぶ。
ところが天然林が乱伐されたりすると、たとえば暖帯地域の場合は常緑広葉樹が減少し、クヌギ、コナラ、ハンノキなど明るい場所に育つ落葉広葉樹が生えて雑木林になる。これを第二期林相と呼ぶ。
この雑木林がさらに乱伐されたり落葉や下草を採取されたりすると、腐葉土が失われ、土地は乾燥して地力が減退していく。そこに生えてくるのが、明るい痩せた土地を好み乾燥に耐えることのできるアカマツだ。
アカマツは本来、岩の上や土砂崩れの跡地などにしか生えないのだが、山が荒れていくと、固有の樹種は消えアカマツばかりとなってしまう。これを第三期林相という。
さらにアカマツが衰弱し、松食い虫の虫害などの影響を受けると、やがてアカマツも枯死し、地面の露出した第四期林相となってしまう。
山は保水力をなくして洪水や山崩れを起こしやすくなり、河川に腐葉土が流れ込まなくなって海に栄養が行かなくなり、養殖や沿岸漁業は打撃を受ける。
まさに亡国に至る道だ。
要するに静六は、アカマツが多い状態はそうなる一歩手前なのだから注意しなければならないと警鐘を鳴らしたのだ。
ところが、せっかく静六の発した警鐘は、妙な形で世の中に拡散されてしまう。
当時最も有名なジャーナリストであった高山樗牛(たかやまちょぎゅう)が『太陽』(日本初の総合雑誌)に「赤松亡国論」として紹介したのがきっかけだった。
愛国心の強い当時の国民は〝亡国〟という言葉に過敏に反応する。新聞がまた面白おかしく書き立てたため、日本中が大騒ぎになってしまった。
困ったのは、アカマツを残しておくと国が滅びると曲解され、庭や小学校や神社などにあるアカマツの大木を切り倒す事例が出てきたことだ。地方の大地主が、四〇町歩ものアカマツ林を伐り尽くしてしまうようなことまで行われた。まったくもって逆効果だ。
今風に言えば、SNSで間違って拡散されてしまったというのに近いかも知れない。
誤解を解くには地道に啓蒙を続けるしかない。有名になれば、これまで以上に熱心に聞いてもらえるからだ。
腹をくくった静六は講演の冒頭、
「赤松亡国論の本多です」
と笑いを取るしたたかさをみせ、その上で正しい知識を人々に伝えていった。
やがて世間も林相変化について認識を共有するようになり、アカマツが悪いのではなく、アカマツが多くなったら注意するべきだという趣旨を理解するようになっていった。
六甲の植林後、三〇年が経ち、はげ山が青々とした緑に覆われた頃、ドライブウェイを建設するべきか否かという論争が起った。
この時、静六は地元の新聞社に呼ばれ、意見を求められた(昭和七年(一九三二)一〇月八日付神戸又新日報)。
神戸市の土木部長や都市計画課長などが居並ぶ中、静六は慎重に言葉を選びながら話しはじめた。
「皆様も御承知の通り、坪野市長は実に豪快な国士でありました。一度主張を説きだせば夜を徹してでも頑張り通すと言った人で、その熱心さにほだされて私もついにお手伝いすることになった次第でございます」
ここで彼はきっと厳しい表情で皆の顔を見回した。
「しかし喉もと過ぐれば熱さを忘れる。当時の写真を撮って保存しておくように頼んでおりましたから、現在と比較して頂きたい。その変化の大きさに皆さん驚かれることと思います。それがいかに大変な事業だったかを思い返していただきたいのです」
会場はしんとして声もない。
「ドライブウェイ建設の是非については、私は何も申しません。ただ現在の林相がいかに大切なものであるかを十分認識し、専門的知識を動員してくれぐれも慎重に取扱って頂きたいと思います」
静六は公園設計においても、自然美を広く市民に堪能してもらうための努力を惜しまなかった。だからドライブウェイ建設についても頭ごなしに反対はしなかったのだ。
しかし六甲の自然はまだ回復途上にあり簡単に失われる。
当時は阪神工業地帯と呼ばれるこの一帯の工業化が進展していた。だからこそ六甲の緑は市民の健康のためにも守らねばならないと力説したのだ。一度失った自然をもう一度復活させることは難しい。それは実際に携わったものならではの思いだった。
結局、静六の思いを汲みながらも、ドライブウェイは開通した。
植林を開始した場所にあたる再度公園は、三宮から車で二〇分ほどという好立地であることもあって、今ではすっかり神戸市民の憩いの場だ。日本の歴史公園一〇〇選や森林浴の森一〇〇選に選ばれ、都市公園としては日本初の国指定名勝になっている。
再度公園の近くには、昭和一五年(一九四〇)、神戸市立森林植物園が開園され、昭和四九年(一九七四)には国際植生学会日本大会の現地見学会が再度山で開催された。
これを契機に、神戸市ではこの森の一部を「再度山永久植生保存地」に指定。五年ごとに植生や土壌の変化を調査記録し、六甲山系の緑の維持に活かされている。
静六の思いは、こうして見事引き継がれていったのである。
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