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【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #14

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永遠の森14

【彰義隊の本田晋】

第二章 暗い井戸の底をのぞき込んだ日 (7)

銓子との縁談

静六に縁談話が持ち上がったのは、東京農林学校本科二年生の終わりごろ。卒業まであと二年と迫った満二二歳の春のことであった。
松野先生に呼ばれ、こう切り出された。
「彰義隊の元頭取で本多晋(すすむ)という方の一人娘に婿を取る話があるのだが、なんでも是非大学の首席をもらいたいとのことで、僕のところへ頼みに来られた。どうだ、行く気はないかね」
静六は面食らった。まだ結婚のことはまったく考えていなかったからだ。
「学士様ならお嫁にやろか、末は博士か大臣か」
という言葉は、まさにこの頃にできたものだ。同年代の一パーセントにも満たない大学生は、将来を嘱望されるスーパーエリートであった。
「あなたは将来出世なさって、希望通りのどんなお嬢さんでもめとることのできる方です」
かつて島邨先生の奥さんに言われた通りであることを、静六も自覚しつつあった。向上心の強い静六のことである。明治の元勲や財閥の一族に連なるくらいの名家の子女との結婚を夢見はじめていたかもしれない。
〝大学の首席をもらいたい〟などとずいぶん偉そうなことを言ってきているが、本多などという家は聞いたこともない。気乗り薄の静六は必死に逃げ回ることになるのだが、見事に追い詰められていく様は後述するとして、先にこの本多晋、銓子(せんこ)父娘について触れておきたい。
実は彼らは二人とも、偉人伝がかけるほどの驚くべき父娘だったのである。

まず本多晋についてだが、〝彰義隊頭取〟だったのは事実だが、当時はまだ若かったこともあって彰義隊のトップに立っていたわけではない。だが彰義隊の生みの親と言ってもいい人物であった。
もとは本多敏三郎といい、一橋家の家臣であった。慶喜が将軍になると幕臣となり、床机廻(しょうぎまわり)組として陸軍奉行支配下の陸軍付調役並に抜擢されている。
だが時に利あらずして鳥羽伏見の戦い以降、旧幕府軍は連戦連敗を喫する。敗北を悟った慶喜は自らの処分を委ね、上野寛永寺で謹慎することを決意した。
だが側近だった本多敏三郎は納得できない。
慶喜が謹慎する前日の慶応四年(一八六八)二月十一日、同志と語らって「君辱しめられれば臣死する」と書かれた檄文を旧幕府陸軍諸隊に向けて発した。最後の抵抗を試みようと全軍に呼びかけたのである。
浅草東本願寺に有志を集め、その数は三日のうちに三〇〇名を超え、衆議によって彰義隊と命名された。床机廻組にちなみ、義をあきらかにする彰義隊としたのである。
投票によって渋沢栄一の従兄である渋沢成一郎が頭取、天野八郎が副頭取に選出され、本多はその下に配された三人の幹事のうちの一人として彼らを支えた。当時、渋沢三〇歳、天野三七歳、本多二三歳。年齢の点から言えば妥当な人選といえる。
東上する新政府軍を前に意気上がる本多であったが、そんな中、隊の方針を巡って内紛が発生する。渋沢成一郎と天野八郎が仲違いし、渋沢は彰義隊を去るという事態に発展したのだ。急遽組織の再編成が行われ、本多は四人いる頭取の一人に就任する。

彼らの奮闘を示す資料はいくつも残されている。その中の一つが明治三七年(一九〇四)に出版された山崎有信著『彰義隊戦史』だ。
まだ彰義隊の面々も存命で榎本武揚が題辞を寄せた同書には「彰義隊頭取本多敏三郎の苦心」という一章が設けられており、「敏三郎、天野八郎と渋沢成一郎との融和を計れども効を奏せざる事」といった小見出しからも彼の苦労が伝わってくる。
そんな最中、悲劇が彼を襲う。
旧幕府高官の間を根回しして回っていた途中、日本橋の海運橋のたもとで乗馬していた馬が急に何かに驚き、馬もろとも近くの運河に転落。左足のくるぶしを複雑骨折する重傷を負ってしまう。
自宅で療養をはじめて三ヵ月足らずの五月一五日、上野戦争が起こる。彼は肝心なところで隊にいられなかったのだ。おまけに開戦前日に総攻撃の情報を知った彼は、なんとか隊に知らせようとするが官軍に阻まれて果たせず、同志の多くを失ってしまう。
彼はその悔恨を生涯抱えて生きることとなる。
――君のためともに死なんと契りしを おくれたる身の恥ずかしきかな
そんな悲痛な歌が伝わっている。

上野戦争後、彼は敏三郎から晋と改名し、静岡で隠遁生活を送っていたが、一橋家時代からの同僚であった渋沢栄一の推薦を受けて明治三年(一八七〇)民部省(後の大蔵省)に出仕。渋沢が官に仕えはじめた直後だけに、本多のことを相当買っていたことがうかがえる。
明治五年(一八七二)には英米独を視察。帰国後は大蔵省国債寮の幹部として活躍した。明治一三年(一八八〇)に大蔵省を退官して横浜正金銀行の役員となり、明治二一年(一八八八)には銀行も退職して、彰義隊士の眠る上野東照宮に奉仕する生活を送っていた。
静六との縁談が持ち上がったのはそんな頃のことであった。

そして本多家の一人娘の銓子がまた、目を見張るばかりの才媛であった。
本多銓子は元治元年(一八六四)一月一一日、父晋、母梅子の長女として生まれた。静六より二歳年上ということになる。
幼い頃より人並み外れて優秀であった彼女は、明治四年(一八七二)一二月に開校したばかりの、日本最初の女学校である東京女学校(後のお茶の水女子大学附属高等学校)に入学している。
明治六年(一八七三)一二月二九日、明治天皇の皇后である昭憲皇太后が同校に行啓され、中でも優秀な生徒は直接お目通りを許され英語辞書を下賜された。
その生徒が誰であったかは、当時の新聞に名前が載っている。

上級生 信田喜久、青木コト、三橋シホ、軍田恭仁、本多セン
下級生 小林鋭、日下部真千尾、杉陽、板倉種、坂本里子、中村専、間島幸、中村文、渋沢ウタ、細野コン

この中の本多センとは銓子のことであり、彼女は首席であった。ちなみに渋沢ウタとは渋沢栄一の長女歌子のことであり、銓子満一〇歳、渋沢歌子は一一歳だった。この時、銓子が昭憲皇太后より下賜された英語辞書は、今も本多静六記念館に展示されている。
彼女の伯母(晋の姉)にキリスト教伝道者として知られた出口せいがいた。銓子はこの伯母にかわいがられ、明治九年頃には母梅子とともに洗礼を受けてキリスト教徒となっている。
父親が欧米出張の際には、出口せいが設立に加わった築地居留地のA六番女学校(女子学院の前身)の寄宿舎に預けられ、見る間に英語力を身につけていった。一四歳のころには、外交官河瀬真孝(まさたか)子爵夫人の通訳を務めるまでになっている。
河瀬夫人は伊豆韮山代官江川太郎左衛門の次女であり、銓子の母方の祖父雨宮中平が江川太郎左衛門の江戸詰め老中であったことから本多家と親交があったものと思われる。

明治一四年(一八八一)、高木兼寛(後の海軍軍医総監)は、日本の女性にも近代医学が習得できるかを試すため東京女学校の成績上位者である銓子と松浦里子に白羽の矢を立て、高木が設立した成医会講習所(現在の東京慈恵会医科大学)に入学させる。
松浦は病気のため途中退学したため(後に東京慈恵会病院の看護婦長となるが、間もなく病没)、銓子だけがほかの男子学生とともに四年の学科を終え、明治二一年(一八八八)医師開業試験後期試験に合格。日本で四番目の女医となった。公式に女医になる道が開かれてからの第一号であったため、世間から大変にもてはやされた。
なお女医の医籍登録年月は、埼玉県出身の荻野吟子が第一号で明治一八年(一八八五)一二月。第二号の生沢(いくさわ)クノも埼玉県出身で明治二〇年(一八八七)三月。愛知県西尾市出身の高橋瑞子(みずこ)が第三号で明治二〇年一二月。銓子が明治二二年(一八八九)七月となっている。
女性が医師として認めてもらうための道は並大抵なものではなかった。すでに産婆はいたわけだし、シーボルトの娘である楠本イネのような存在はあったが、公に医師とは認められていなかったからだ。
女医第一号の荻野吟子は女子高等師範学校を首席で卒業した後、私塾で医学の勉強をしたが、医師開業試験を受けさせてもらえなかった。願書を東京府に出しても埼玉県に出しても受け取ってもらえない。そこで軍医監の石黒忠悳(いしぐろただのり)に直訴し、特例として受験が認められたのだ。
蘭方医の家に生まれた生沢は女子禁制の学校で勉強するため断髪して男装した。済生学舎(日本医大の前身)の第一号の女子生徒となった高橋は、男子学生からの激しい嫌がらせにも負けず初志を貫いた。
銓子が最初から公的に認められて医師の道を歩むべく勉強させてもらえたのは、この三人が苦しみながら道を開いてくれたおかげだったと言える。
四人目とは言え、本多銓子の優秀さは疑うべくもない。静六自身〈ひときわ優れた才媛〉(『体験八十五年』)と表現している通りであり、〝結婚相手は大学の首席でないと〟という条件を親が出したのも納得がいく。
そして銓子は医師免許獲得の翌年、静六と運命の出会いをするのである。

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