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【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #21

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永遠の森21

【造林学の権威 ミュンヘン大学総長カール・ガイアー】

第三章 飛躍のドイツ留学 (5)
ミュンヘン大学入学後に訪れた試練

静六は、ドイツでたまたま目にした日本の新聞記事の中に銓子の名前を発見して思わず胸が熱くなった。

〈久し振りで日本の新聞を読んだ。中でも感動の深かったのは、わが最愛なる妻の名があったことで、五月一日及び三日の両紙に診療時間改正の広告があったことである〉
(明治二三年六月十五日付『洋行日誌』)

静六の留学中、銓子は新堀町の自宅に診療所を開業していた。
世間を驚かせたのは、往診を頼まれても交通費を取らなかったことだ。できるだけ多くの人に医療を受けてもらいたいという思いからであった。貧困者にも広く治療を施そうと、薬の代金を上中下に分け、患者の経済状況に応じて納めてもらう工夫もした。
慈愛に満ちた診療に加え腕も良かったので、評判を呼んで門前列をなしたという。
自宅での診療の傍ら、先述したように東京慈恵会病院の産婦人科に勤め、同看護婦養成所の講師となり、横浜フェリス女学校の衛生学を担任していたから多忙を極めた。一時は明治天皇第六皇女昌子内親王(作家竹田恒泰氏の曾祖母)の侍医も務めている。
医師本多銓子が最も輝いていた時代であった。

そしてターラントにいる静六だが、彼は半年もしないうちにミュンヘン大学へ転校する準備を始めていた。
ターラント山林学校は、静六が帰国後の明治三七年(一九〇四)に大学に昇格するが、静六が入学した頃はまだ高等専門学校という位置づけだったから学位は取れない。
ドイツ語での授業に慣れ、林学の基礎を学んだら、次はミュンヘン大学に転校するつもりだった。
かつて東京農林学校の中村弥六教授は東洋人として初めてミュンヘン大学に入学し、見事、博士号(ドクトル)を取得していた。上昇志向の強い静六は、是が非でも中村同様、ドクトルになりたいと考えていたのだ。
そのためには秋の入学時にあわせて転校するのが効率的だ。
そして彼が選んだのは、意外にもミュンヘン大学の経済学部経済学科であった。確かに当時、林学は経済学の一部だったが、経済学部には林学科もある。
しかし、彼が目指している博士号はあくまで〝ドクトル・エコノミー〟だ。それなら林学科より経済学科の方が必要な講義を取得しやすいと考えたのだろう。あくまで目標に最短距離で到達しようとする彼らしい選択だ。
思えばターラントでの日々は、短くはあったが思い出深いものであった。
ユーダイヒ学長やシュミット博士、下宿の女主人に心からお礼を述べ、ヘレーネとの別れに後ろ髪引かれる思いをしながら、夏休みも終わりに近い明治二十三年(一八九〇)十月六日、ミュンヘン大学に向けて出発することになった。結局、ターラントには五ヵ月ほどしかいなかったことになる。
夜十一時五十二分発という遅い時間の汽車であったにもかかわらず、牧師や教会の信者たちが多数見送りに来てくれたのには感激した。はたしてヘレーネは駅の物陰から涙ながらに見送っていたのだろうか…。

ミュンヘン大学はベルリン大学に次ぐドイツ第二の大学である。三千五百人余りの学生と百七十人の教授を擁し、ターラント山林学校とは桁外れの規模であった。
静六以外に日本人留学生が六名いた。近代養蚕学の権威として後に東京帝国大学農学部教授となる佐々木忠次郎、京都帝国大学医科大学学長となる坪井次郎など錚々たる面々だ。
だがドイツ語が上手くなるためには日本人とばかり話していてはいけない。彼らと会話するのは土曜日だけとし、基本的にドイツ人とのみ付き合うよう努めた。
参ったのは、生活費がターラントの二割高だったことだ。
ミュンヘンはビールの本場。昼も夜もお茶を飲む感覚でビールを飲む。値段はむしろお茶より安い。朝の一杯とて二百五十CCのグラス一杯を飲み、昼はたいてい五百CC一杯ですますが、夕食はそれが二、三杯となる。ただビールを飲む場合、パンとハムやソーセージと塩大根くらいで食事を済ませるからかえって安あがりであった。
静六は後に結構な飲んべえとなって銓子を心配させるが、ミュンヘンで一緒だった坪井次郎によると、当時の彼はさほど酒に強くなく、二百五十CCのグラス一杯でも赤くなっていたようだ。

ビールの誘惑は別にして、学問の環境は言うことなし。
ターラント同様、学友たちはみな親切だった。教師たちも何かと配慮してくれ、中でもウェーベルという教授が懇切丁寧に面倒を見てくれたのは助かった。
ミュンヘン大学には造林学の権威カール・ガイアーがいた。東京農林学校で静六が教わったマイエル教授の師である。
ガイアーは、林業は農業とは考え方を異にするべきだと主張し、営利のみを目的に成長速度が速く単価の高い木材一種類のみからなる単純林を造成し、収穫時に一斉に伐採するような林業を徹底的に批判した。
不定形で多様な森林こそ最上だとし、これまで重要視されてきた森林経理学の地位を下げたという意味で画期的なものであった。こうした考え方はミュンヘン林学と呼ばれている。
こうした功績により、ガイアーはミュンヘン大学の総長にも選出された。
ミュンヘン林学の水準の高さは予想通りであったが、静六をさらに感動させたのは、その名をヨーロッパ中に知られるルーヨ・ブレンターノ教授の講義であった。
バイエルン王国に生まれたブレンターノは英国で労働組合を研究。社会改良の基礎を労働者団結の自由におき、自由貿易を主張するなど自由主義の立場を示した。資本主義の発展の源泉を商人の私利私欲の追求に求めるその主張は〝社会自由主義〟と呼ばれている。
その立場は『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で知られるマックス・ウェーバーとは立場を異にするものであり、二人の間には激しい論戦が繰り広げられた。
「そもそもキリスト教には富の蓄積を罪とする考え方があり、カトリックが経済活動に没入できないのは富の蓄積に引け目を感じるからだ。逆にプロテスタントが経済活動に熱心なのは高い倫理性ゆえではなく、単に信仰を忘れて世俗化したからにすぎない」
ブレンターノは謹厳な人物としても知られ、ウェーバー批判の舌鋒も極めて鋭いものがあった。
彼の著作は平成十九年(二〇〇七)にミネルヴァ書房から『わが生涯とドイツの社会改革 1844~1931』(ルーヨ・ブレンターノ著)として出版されており、今日的にも重要な学者と言える。

ところがだ。いい環境に恵まれ、一日も早くドクトルの学位を取って帰国しようと日夜勉強に打ち込みはじめた矢先、思ってもいなかった報せがもたらされる。
養父晋から書状が届き、これ以上仕送りをすることができなくなったと書かれていたのだ。青天の霹靂(へきれき)とはこのことだ。ミュンヘンに転校して一ヵ月ほどが経った頃のことだった。
本多家では、資産のほとんどを静岡県の富永という銀行家に融資して運用していたのだが、富永が突然破産してしまったのだ。抵当に入れてあった地所はことごとく第二順位で回収できなかった。
後に静六は〝すべての玉子を同じカゴの中に入れるな〟という有名な投資の格言を引用しながら、リスク分散の基本である資産三分法について紹介している。おそらく彼の念頭には、かつて味わった本多家の大失敗の苦い思い出があったに違いない。
その富永という銀行家は、晋が維新後、旧幕臣が一時静岡に集まっていた頃、下見附町(現在の磐田市)で寺子屋をしていたときの教え子であった。情が判断を狂わしたのだ。告訴したところでとれるものは少ないと諦め、晋は許すことにした。
手紙にはそうした顛末が書かれた後、今後は自発的に勉強するようにと締めくくられていた。留学を続けるも帰国するも、静六の判断に任せるというわけである。

おそらく晋は、アルバイトをしながら勉強を続ける道もあると考えていたのだろうが、ドイツではアメリカなどと違って皿洗いや掃除にアルバイトを雇うという風習がなかった。働こうにも働けない。
幸いなことに持ってきた金がまだ千円ばかり残っていた。不二講の信者からもらった餞別も含まれている。当時の警察官や小学校教員の初任給が八円という時代だから、千円は現在価値にして二千五百万円ほどになる。静六はこれでなんとかしようと考えた。
本多家では留学期間四年として総額四千円の仕送りをしようと約束してくれていた。それが残り三年以上あって千円しかないわけだ。生活を相当に切り詰めていかねばならない。
彼はすぐに行動を起こした。まずは家賃の安い屋根裏部屋の下宿に移ったのだ。朝食付きなので、お昼と夜をなんとかしなければならない。
米を三日分くらい炊いておき、酢漬けや塩漬けのキュウリをおかずに、あとは水を飲んですますという具合にした。
日本から持ってきた醤油が瓶に半分ほど残っていたのでそれに水と塩を加えながら使った。最後にはわずかに色の付いた塩水のようになったが、それでもわずかばかり醤油の味がするのでただの塩水よりはよかった。
こちらでもモテモテぶりは変わらず、近所の娘たちから散歩に誘われた。これが困る。途中で花を買ったり、途中で休んだ店のお茶代などの支払いは男がしなければならないからだ。
それを逃れるために朝七時から日の暮れるまで学校にいて、夜の十一時頃になって散歩することにした。そんなに遅いと誰もついてこない。金もかからず、例のエキス勉強法に集中できた。
富裕な家庭の子弟ならこんな生活には耐えられなかっただろう。だが彼には極貧を耐え抜いた経験がある。そのおかげで決して心折れなかった。
人生に無駄な時間などないのである。

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