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【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #47

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永遠の森47

【日比谷公園での優雅なひととき】

第四章 緑の力で国を支える (17)
日比谷公園(後編)

静六にしても公園の設計など初めてのことだったが、いつもの〝乃公出でずんば〟の精神を発揮して敢えて受けた。〝日本で最初の洋風公園〟というのも魅力的だった。
欧米で買い求めた公園設計書と東京市が作成していた最新案(東京市吏員五名案)を参考にしながら、一週間ほどかけて下図を作って提出した。明治三四年(一九〇一)三月のことである。
あくまでまだ下図段階だったが、松田市長から正式に公園設計を委嘱したいという申し出があった。とりあえず合格というわけだ。

なぜ辰野案が通らず本多案が通ったのかというのは、多方面にわたる本多静六の成功の秘密が理解できる重要なポイントだ。
辰野金吾は建築界の巨人である。社会的地位、名声、建築上の知識。すべてにおいて静六は辰野の足元にも及ばない。
だが彼の公園設計案は辰野のそれとはまったく異なるものだった。
簡単に言ってしまうと、辰野案は完全な西洋式。日比谷見附の石垣のような既存の構造物はすべて撤去し、公園の端から端まで見渡せるシンプルなプランになっている。
それに対して本多案は、ドイツ風のテニスコートや遊歩道を設けはしたが、日本庭園に詳しい造園家小沢圭次郞の協力も得て、和風のテイストも取り入れていた。
要するに、江戸の残り香が恋しい大名庭園を愛する人からも、西洋好きのハイカラな人からも支持されるものを提示したのである。明治末という時代を考えると、まことに心憎い。
加えて、本多案が東京市吏員五名案に沿ったものであったのに対し、辰野案はこれまでの議論をまったく踏まえていない新しいものだった。
どちらが採用されやすいかは明白だろう。
夢は実現できなければ意味がない。本多静六の社会実装化する力をここに強く感じるのである。

下図を作ってからが苦労の本番であった。
洋風公園はこれまでの日本人の常識を覆すものだけに、市議会から様々な批判が出ていることは聞いていた。だが中には少々極端なものが含まれていた。
「なぜ門扉を設けないのか?」
「植えた草花を盗まれるのではないか?」
といった素朴な疑問だけでなく、
「池に身投げをされたらどうする?」
という奇抜なものまであった。
これらの疑問質問に対し、静六は丁寧に説明していった。
草花が盗まれないよう門扉を設けたほうがいいのではという意見に対しては、
「公園は国民の公徳心を養う教育機関の一つでもあります。菓子屋の小僧になると、やがて菓子に飽きて食べようとしなくなるのと同じで、私は公園にたくさんの花卉(かき)を植え、国民が花を盗む気がしないくらいにしたいと考えます」
と答えて強引にねじ伏せた。
公園に池を作ると身投げの名所になる恐れがあるという指摘に対しては、
「石垣から直接池に飛び込めないようにし、池の周囲に浅瀬を作ることにします」
と打って変わって柔軟な姿勢を見せた。
提案と却下の連鎖に自分でピリオドを打つのだという強い決意と、涙ぐましいまでの多方面への配慮が伺える。
苦労の甲斐あって、明治三四年(一九〇一)、静六の設計案は無事市議会で採択され、翌三五年(一九〇二)四月、公園建設に着手することとなった。

公園建設に関しても、難題は山積していた。
そもそも敷地はその昔、日比谷入江だったところを埋立てた場所のため地下水位が高く、植栽不適地だということがわかったのだ。
土壌の過剰な水分は根のまわりの酸素欠乏と土壌の還元化をもたらすため、根の活性低下や壊死を引き起こす。樹木の選定や配置には十分な配慮が必要であった。
おまけに建築界の大御所まで引っ張り出して多くの案をボツにしてきた割に予算が少なく、帝大演習林から不要な苗木をただ同様で払い下げてもらって植林した。
静六の設計の特長は遊歩道にあった。
長くかつ何度も交差させ、市民に変わっていく景色を存分に楽しんでもらうための工夫が凝らされていた。加えて乗馬でも回れる道幅を確保していた。
だが、どうしても最初は小さい木しか植えられない。日陰に乏しく、これでは日射病になってしまうと批判が出た。しかし遊歩道を楽しんでもらうというコンセプトは譲れない。そこで水飲み場を数ヵ所作った。馬用の水飲み場も設けられた。
二年間試行錯誤を続け、ついに明治三六年(一九〇三)六月一日、無事開園式を迎える。

日比谷公園開園の六日後、社会主義運動家の堺利彦が万(よろず)朝報(ちょうほう)に「日比谷公園所感」という記事を書いている。
その中で堺は、ブローニュの森やハイドパークを例に挙げながら、日比谷公園のことを〝公園らしき公園、理想的な公園〟と絶賛。他の新聞各紙もおおむね好評だった。
だがほっとしたのもつかの間、またも問題が発生する。
公園には物珍しいものが少なくなかったが、中でも広い芝生は当時の一般市民にとって初めて見るものであり、西洋の香りを感じることができると大人気だった。
ところが人々が殺到したために、開園して一ヵ月も経たないうちにぼろぼろに踏み荒らされてしまったのだ。
西洋風を導入するには、同時に西洋風のマナーも広めていく必要を痛感した。

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