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【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #22

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永遠の森22

【関東大震災から東京を復興させた男 後藤新平】

第三章 飛躍のドイツ留学 (6)
後藤新平との出会い

静六がミュンヘン大学で博士号(ドクトル)に挑戦していた頃のこと、ふらっと一人の日本人が彼の前に現われた。それが後藤新平だった。
台湾総督府民政長官、南満州鉄道(満鉄)初代総裁、逓信、内務、外務大臣、東京市長などを歴任し、実行力もあったが、なにしろ言うことが日本人離れしたスケールなもので〝大風呂敷〟というあだ名がついた政治家だ。
関東大震災の翌日に内務大臣兼帝都復興院総裁に就任した彼は、焼け跡に百八メートルを超える道路の建設を主張した。あまりのスケールの大きさに計画縮小を余儀なくされたが、その名残りが現在の昭和通り(幅は四十四メートル)である。
そんな彼は若い頃、静六と深い友情を結び、何かというと頼りにし続けた。この後藤の縁で、静六は後に帝都復興に関与することとなる。

後藤は静六より九歳年上である。水沢藩(現・岩手県奥州市)藩医の家の生まれだ。一族に蘭学者高野長英がいる。
十八歳の時、福島の須賀川医学校に進み医学を学ぶが、この頃、静六の岳父晋が須賀川長禄寺に参禅していたことがあり、その参禅仲間に須賀川医学校生の後藤新平がいたという奇妙な縁もあった。
明治十三年(一八八〇)、後藤は弱冠二三歳で愛知県立病院長兼愛知医学校長に就任。
ここで事件が起こる。明治十五年(一八八二)四月六日、岐阜で遊説中だった自由党総理板垣退助が暴漢に襲われ刺傷を負ったのだ。
「板垣死せども自由は死せず」
の名言は、この時に発せられたものとされる。
自由民権運動の中心であった当時の板垣は、政府にとっては危険人物だったが、後藤はそんなことを一顧だにせず、すぐに現場に駆けつけて治療を施した。
若い割に肝の据わっているこの青年医師に、板垣は興味を持ったらしく、
「あの医者は少し毛色の変わった人物だった。できれば政治家にさせたかったが」
周囲にそう語ったという。
さすがは板垣。後藤の内にある政治家の血を見抜いていたのである。

後藤の最大の幸運は、医学界のドンである石黒忠悳(後の陸軍省医務局長、子爵)にその才を愛されたことである。石黒の推薦により、愛知県病院長から内務省衛生局技師に大抜擢されることとなった。当時の内務省衛生局は、局一つで現在の厚生労働省同様、あるいはそれ以上の権限をもつ役所であった。
後藤が衛生局の技師になってまもなく、四歳年上の北里柴三郎が入局してくる。後に無二の親友となる二人だが、意外なことに衛生局時代は犬猿の仲だった。
北里は後藤のことを〝浅学の田舎医者〟と小馬鹿にし、後藤は後藤で〝横文字好きの青二才〟と言い返した。
後藤という人間は人よりも頭の回転が速かった分、周囲がのろのろしていると我慢できず、すぐにかんしゃくを起こして怒鳴りつける。そのため、後年男爵になっても陰で〝蛮爵(ばんしゃく)〟とあだ名されていたほどであった。
北里もかんしゃくでは負けてはいない。ドイツ語の〝ドンネル〟(雷)からとって、〝ドンネル先生〟と呼ばれていたほどであった。
要するに似たもの同士だったのである。
衛生局は東京医学校(後の東大医学部)卒の医師ばかり。後藤のことを馬鹿にしていたのは北里だけではなかった。北里のように本人に面と向かって口にするかどうかの違いだけだったのだ。
周囲の冷ややかな目にも傲然としていたが、内心悔しく思っていた後藤はドイツ留学を考える。海外で学位を取ったら彼らを黙らせることができるというわけだ。石黒の了承を得て、静六に遅れることわずか二週間ほどで念願のドイツ留学の途についた。

当時、北里は先にドイツに留学していた。
ベルリン大学衛生研究所で細菌学者コッホと出会えたのは、北里にとって人生最高の幸運であった。
勤勉で優秀な北里のことをコッホは大変にかわいがり、その指導の甲斐あって、破傷風の純粋培養、免疫血清療法の発見、ツベルクリン療法の研究など次々と輝かしい成果を上げていった。後にノーベル賞第一号の候補に挙げられることとなる。
ドイツ留学中の北里を後藤が訪ねた。悪口を言い合っていたことなど忘れたように二人の友情は深まり、北里の協力もあってドイツ帝国衛生院の講義を特別に聴講させてもらうこともできた。
ところがここで後藤の中の政治家の血がうずきはじめる。医学ではなく政治経済を学び、将来政治家になることを夢見はじめたのだ。
そしてベルリンを離れ、静六のいるミュンヘンへとやってきた。明治二十四年(一八九一)のことであった。

『体験八十五年』によれば、突然静六の前に現れた後藤はいきなりこう言ってきたという。
「君はブレンターノ博士の下で財政経済学を学んでいると聞いている。俺もそれをやるつもりでやってきた。ついては先生に紹介してくれ」
後藤は生涯東北なまりのズーズー弁が抜けず、演説を不得意としていた。言っていることは偉そうだが、どこかくすっと笑いたくなる愛嬌がある。
「君は衛生局の技師として医学の研究にきたんじゃないのか?」
すると後藤はフフンと鼻先で軽く笑って、
「なるほど俺は医者だが、ただの医者とはわけが違う。人間の病気を治す医者ではなく広く国家社会を治療する医者だ。ちっぽけな人間の脈を取るより大きな国の脈を取ろうと思うのだ。だから、まずはさておき政治経済を勉強する必要がある。聞くところによるとブレンターノ博士は今世界第一の政治経済学者だそうだから、いやしくもドイツへ留学してきた以上はこの先生の講義を聞かなくちゃ、せっかく来た甲斐がないからな」
と威張ってみせた。
後年〝大風呂敷〟と称される後藤新平の面目躍如である。

「ところで君は、ドイツ語は大丈夫なのか?」
「いやちっともわからん。英語なら福島県の須賀川医学校時代に少しばかりやったことがあるが、ドイツ語はこっちへ来て全く初めてなんだ」
と言うのにはあきれた。
「ドイツ語が分かっても分からんでもそんなことは問題でない。なに俺は耳で聴かずに腹で聴くんだ。五感で聴くんでなく第六感で聴くんだ。とにかく、つべこべ言わずに一度僕をブレンターノ博士のところまで連れて行ってくれ」
『体験八十五年』は、晩年の静六が昔を振り返って講談調に面白く手を加えているところもあるのだが、後藤新平という男は万事こういうところがあった。ただ一方で、どういうわけかいろいろな人間に助けられ、人たらしと言っていいところがあった。
静六は仕方なく後藤を連れて博士の研究室へ出向き、まず彼を外に待たせておいて恐る恐る先生に要件を伝えた。
あとで問題になってもいけないのでドイツ語ができないことも包み隠さず伝え、その代わり、後藤が日本でその優秀さを内務省衛生局長からも認められていることを、ややおおげさにほめておいた。
博士はそれを聞いて、かんらかんらというような笑い方をし、
「なかなか面白い男だ。よろしい明日からでも聴講を許す」
と言ってくれたので、後藤を呼んであらためて紹介することができた。

後藤は大喜びだ。早速翌日から講義に出席した。
静六は当時すでにドクトル候補としてほかの三人の候補者(プロシャ人とアメリカ人とロシア人)と共に一番前の中央に席が決められていたが、後藤は新米だからずっと離れて一番後ろに座らされることになった。
それでも十分厚遇だった。
その頃ブレンターノ博士の講義には聴講学生が四〇〇人余りもきていたほか、時事問題の講義があると中央の役人まで聴きにくる。
ちょうどそのときもドイツ農業の将来という問題が取り上げられ、講義の予告が新聞その他にデカデカと発表されていたので、農商務省の参事官クラスがいずれもフロックコートにシルクハットのいでたちで傍聴に来ていた。しかも彼らは座席がないため教壇の左右に立ったまま聴いていたのだ。
そんな貴重な講義だったが、後藤にはちんぷんかんぷん。二時間の講義の間、博士の身振り手振りを見ているだけという有様だった。耳で聞かずに腹で聴くんだと鼻膨らませていたが、そううまくはいかなかったのである。
さすがの後藤も兜を脱いだ。
「やっぱり君の言う通り語学からやらなければダメだ。一つ俺に語学を教えろ」
ものを頼んでいるのに、相変わらずえらそうだ。だが静六は内心、ザマーミロとちょっといい気持ちになった。

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