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【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #06

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永遠の森6

第一章 勉強嫌いのガキ大将 (4)

郷土の偉人・塙保己一

埼玉が生んだ三賢人と呼ばれる人達がいる。
盲目の学者・塙保己一(はなわほきいち)、近代資本主義の父・渋沢栄一、日本の女医第一号・荻野吟子(おぎのぎんこ)の三人だ。最近では我らが本多静六も加わり四賢人と称されることも多い。
静六の生まれた河原井村から渋沢が生まれた血洗島村までは北西に三〇キロ。埼玉県になる前、血洗島は熊谷県、河原井村は浦和県と別々の県に分れていた。
塙の生まれた児玉村は血洗島村から西に六キロ、荻野の生まれた俵瀬村は河原井村から北西に一八キロほどの場所にある。四人とも離ればなれという感じだが、このあたりは険しい山道がなく広く開けた平野である。利根川の水運が発達し、中山道や川越街道といった陸路も整備されていたので往来は盛んであったから、当時の人にしてみればほんのご近所さんだ。
郷土意識の強かった当時、郷土の偉人として誰を尊敬しながら育ったかというのは大きな意味を持つ。静六にとって、それは三賢人筆頭の塙保己一だった。塙は今で言う視覚障害者だが、健常者でも及ばない偉大な業績を残した世界に誇るべき偉人である。
静六の生まれる四五年前にすでに他界していたが、本多静六その人を特徴付ける克己心に大きな影響を与えた人物でもあり、ここで少し詳しく触れておきたい。

塙は延享三年(一七四六)五月五日、武蔵国児玉郡保木野村(現在の埼玉県本庄市児玉町保木野)の農家萩野家に生まれた。幼名は萩野寅之助である。
病弱だった彼は三歳頃から目の異常を訴え、心配した母親は八キロも離れた藤岡(現在の群馬県藤岡市)にある眼科医まで彼を背負って通ったという。途中には神流川(かんながわ)という川もあり、並大抵のことではなかったはずだ。そんな努力のかいなく、七歳の頃、失明してしまう。
不幸はまだ続く。塙のことを心配してくれていた母親が、心労と過労のためにこの世を去ってしまうのだ。
それでも塙はたくましく生きていった。
字も手のひらに指で書いてもらって覚えた。それはまるで砂地に水がしみこむようであり、その理解の早さ記憶の確かさに、教えているほうは驚きの連続であった。彼は自分の記憶力が人より格段に秀でていることに気づき、自信につながっていく。
室町時代以降、『太平記』を暗記していろいろな家に出入りしてそれを語る、〝太平記読み〟という職業があった。
それを人から聞いた時、
「『太平記』はわずか四〇巻、それしきのことで仕事になり妻子を養うことが出来るなら、私に出来ないはずがない」
と考え、家を出て身を立てることを決断する。
父親に頼んで江戸に出ることを許してもらうと、母親の形見の巾着(きんちゃく)にわずかなお金を入れ、身の回り品を入れた箱を背負って旅立った。周囲がひやひやするほどの大胆さだ。
江戸に出た彼は雨富須賀一(あめとみすがいち)という検校(けんぎょう)のところに身を寄せた。検校とは、目の悪い人の中でとりわけ優れた指導者に与えられた江戸時代の官職である。
当時の視覚障害者はあんまや鍼灸、琴や三味線などで身を立てるのが普通。塙も他の弟子たちと一緒にそれらを習ったが、不器用だったため上達しなかった。
おまけに身体も弱く、彼の行く末を心配した雨富検校はこう告げる。
「お前のやっていることはどれも私の目にかなうものではない。しかし三年間は面倒を見よう。三年後にものにならなかったら故郷に帰りなさい」
そして伊勢神宮への代参を頼み、五両の金を与えた。代参はお金を与える口実だったのだ。塙は父親に道案内をしてもらい、伊勢のみならず、京や大坂、高野山などを巡った。しばらくすると不思議なことに身体は丈夫になっていった。
一時は絶望して死も考えた塙だったが、師や父の愛情に支えられ、もう一度人生と向き合うのだ。それは得意な記憶力を使うこと。書を読んでもらい、和歌を習うなどして学問を積んでいった。当時有名な国学者であった賀茂真淵(かものまぶち)に師事すると、すぐに賀茂門下では彼の右に出る者はいなくなった。
彼が一人前となったことを認めた雨宮検校は、今度はなんと百両もの金を出し、自分と同じ検校の位に上がる資金にせよと言って背中を押してくれる。塙という姓は実は雨宮検校の姓であり、名は『文選』の中の〝保己安百年(己を保ち百年を安んず)〟という一節を採って、この頃から塙保己一と名乗りはじめる。
そして彼は大業を志す。それが『群書類従』の編纂であった。日本古来の文学、歴史、法律などの書物を集め、我が国の学問水準を飛躍的に高めようとする試みである。『源氏物語』や『万葉集』のような広く流布されているものは対象とせず、文化的価値は高いが人の目に触れにくいものを選んで収録していった。
それは従来秘伝とされてきた資料にも及んでおり、学問を特権階級の専有物とせず、広く人々に開放したことにこそ『群書類従』の文化的功績がある。
毎月一冊か二冊、こつこつと刊行していったが、好事魔多し。恩人の雨宮検校が亡くなった上、江戸に大火が起こり、家と版木を失ってしまう。それでも彼の心は折れなかった。目の不自由な人の強みは、常人とはかけはなれた強靱な精神力にある。
あきらめるどころか、幕府に和学講談所の地所拝借願いを提出。拠点を作って事業を継続していく決意を天下に示した。寛政の改革で知られる松平定信は塙の申し出を喜び、快諾するとともに和学講談所に〝温故堂〟の名を授けて激励した。やがて和学講談所は漢学の昌平黌と並ぶ存在となる。
こうして『群書類従』の編纂は国家事業として継続されていき、四一年間で六六六冊を数えた。一七、二四四枚の版木は、今も渋谷の温故学会に保管され、国の重要文化財に指定されている。
この前人未踏の業績により、塙は検校の最高位である総検校にのぼりつめた。
彼は日頃、美食を好まず酒を憎み、般若心経をずっと口の中で唱え、天神様を信仰していた。子どもの頃から花が好きで、失明してからも花のことが忘れられず、庭にスミレを植えたり、花の咲く木を植えたりしたという。
そして文政四年(一八二一)九月一二日、惜しまれつつこの世を去った。
偉大な業績は人々の心に勇気と希望を与え、それは国境さえも越えた。視覚、聴覚の重複障害者として知られるかのヘレン・ケラーもそのうちの一人だった。
彼女は幼い頃、母親から、
「日本の塙保己一をお手本にしなさい」
と励まされながら育ったという。
塙の苦難に負けない努力の物語は、静六のみならず郷土の人々にとっての誇りであった。塙の生家に記念碑が建てられた際、その題額の揮毫をしたのはかの渋沢栄一である。彼もまた塙に勇気づけられたうちの一人だったのである。

(次回は5月14日更新予定です)


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