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【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #30

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永遠の森30

【本多銓子】

第三章 飛躍のドイツ留学 (14)
良妻賢母でかつ名医

熱心なキリスト教徒であった銓子は同情心に厚く、困っている人には着物なども惜しげもなく与え、人々からの信頼も厚かった。
相変わらず翻訳や清書や資料の整理などで静六の仕事を助け、彼がはじめた四分の一天引き貯金にしても、やりくりするのはもっぱら銓子の役目だった。
静六に負けずアイデア豊富で、家庭内を平和に保つために〝ジャン憲法〟というユニークなルールを考案している。
家族間で何か意見が一致しないことがあると、互いに二度までは意見を主張しあうが、それでも決まらない場合、三度目はじゃんけんで決めるというものだ。おかげで家庭内はいつも円満。笑顔が絶えなかった。
まさに良妻賢母の鏡だが、彼女の仕事はそれだけではなかったのだ。

静六の帰国後、一家は東京駒場の農科大学内の官舎に移ったが、医業に未練のあった銓子は赤坂新坂町(現在の港区赤坂八丁目)に診療所を移し、毎日人力車で通っていた。
彼女が貧しい者に配慮し、採算度外視で診療していたことについては先に触れた。それでも相応に収入はあったろうが、おそらくそれは臨時収入ということで全額貯蓄に回していたものと思われる。
そのうち子どもも生まれる。長男博、長女輝子と次々に生まれていき、最終的には三男四女の子だくさんとなっていった。
妻として母として医師として、銓子の頑張りは尋常ではなかった。
いろいろな工夫もした。当時はツケ払いで買うのが普通だったが、すべて現金で払うかわりに安くしてもらい、生活費を切り詰めた。
それでも月末になると、支払いの現金がなくなってくる。食事はご飯にごま塩をふりかけただけという日が増えた。
大人はなんとか我慢したが、育ち盛りの子どもたちはそうはいかない。
「お母さん、今夜もごま塩なの?」
と泣きそうな顔をする子に、
「もうみっつ寝るとオトト(魚)を買ってあげますよ」
となだめすかした。
だが、こうした頑張りにもやがて限界がやってくる。三人目の子どもを妊娠した銓子はさすがに手一杯となり、診療所を閉じる決断をするのだ。

明治二九年四月九日付報知新聞に「女医の現況」なる記事が掲載されており、〝今東京に在る有名なる女医を挙ぐれば〟と前置きした上で、以下のように記されている(『新聞集成明治編年史』)。

〈日本橋 高橋みつ。京橋 吉田けん。赤坂 大村のぶ。京橋 岡見けい。本郷 伴はる。本郷 馬宮八重。本郷 鷲山弥生等にて、其他東京病院の助手田島かん子、丸茂病院の助手丸茂むね子、常(つねの)宮(みや)殿下の侍医たりし本田(原文ママ)せん子の如きものあり、田島、丸茂の両女は今尚ほ盛んに従事し居れども、本田せん子は某山林学士に嫁し妊娠して御殿を下りたる後は其の業を廃したりと云ふ〉

静六が〝某山林学士〟(確かに結婚した時点では学士取得直前だが)とあからさまにけなされているのは、〝常宮殿下(明治天皇の第六皇女、竹田恒久王妃昌子内親王)の侍医たりし本田せん子〟にもう一度復帰してもらいたいという記者の願望の裏返しではなかろうか。ちなみに報知新聞はこの翌年、女性最初のジャーナリストとなる羽仁もと子を入社させている。

実は銓子には、自らがあきらめた女医の仕事について、後を託した人物がいた。
銓子より一七歳年下の井出(結婚後は竹内)茂代である。
井出は開校間もない東京女医学校(現在の東京女子医大)の第一回卒業生であった。
東京女医学校は、風紀が乱れるとして女性を入学させなくなった母校済生学舎(現在の日本医科大学)に反発し、吉岡彌生(やよい)が設立した女医養成機関である。志は高かったが校舎は吉岡の自宅で、医療設備も頭蓋骨標本一つ、試験管一〇本しかない。
それでも井出は必死に勉学に励み、見事医師開業試験に合格した。医師登録は明治四一年(一九〇八)で、女医としては一四六番目になる。銓子が女医として四番目に登録してから一九年の間に、一四二人の女医が新たに誕生していたのだ。
ところが彼女たち対する世間の偏見はひどいものだった。
そもそも東京女医学校は名目ともに女医を育成するための学校であったにもかかわらず、卒業式で〝女医亡国論〟を口にする来賓までいた。ひどい話である。
その時は来賓の大隈重信が、
「女性医師の将来は、今後の歳月を待って評価すべきである」
と発言してその場をとりなしたという。
こうした女性蔑視の風潮は医学先進国のドイツにしても同様で、彼らが女医を認めはじめたのは日本とさほど変わらない時期であった。
この〝女医亡国論〟に対する反駁文を発表し、世間を驚かせたのが銓子である。
居ても立ってもいられなくなった彼女は、東京女医学校の医局にいた井出が独立し、新宿で開業するのを応援した。
「自分の分まで頑張ってください」
そう言って多額の祝い金を送り資金面を助けたほか、患者を紹介するなど、なにくれとなく世話を焼いて彼女を感激させるのである。
おかげで井出の医院は評判が良く、連日患者で賑わったという。
ご飯にごま塩をかけるような生活をしてこつこつ貯めたお金も、社会にとって大切な局面では惜しげもなく使う。静六夫婦の思いは一つであった。

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