【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #52
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【明治神宮 大鳥居】
第四章 緑の力で国を支える (22)
明治神宮建設計画
二度の対外戦争に勝利して欧米列強の仲間入りを果たした明治という偉大な時代の終焉は、当時の日本人にとって大きな衝撃であり、明治天皇に対する敬慕追悼の念もまた格別なものがあった。
明治天皇が崩御されてすぐ、
「御陵は是非東京の地にお願いしたい」
という声が東京市民の間から澎湃(ほうはい)とあがったのも無理からぬことであった。
大正元年(一九一二)七月、尾崎行雄の後任として東京市長に就任していた阪谷芳郎のところには、九月の大葬を前に陳情があとを断たなかった。阪谷の義父・渋沢栄一のところも同様である。
だが残念ながら遺言が残っており、御陵は京都桃山の地に決まった。すると今度は代わるものとして、明治天皇をご神体とする神社の建設計画が浮上する。
大正二年(一九一三)一二月二〇日、閣議決定により「神社奉祀調査会」が設置され、内務大臣が会長ということになり、初代会長に原敬、ついで大隈重信が就任した。
委員には錚々たる顔ぶれが並んだ。
阪谷と渋沢のほか、久保田政周(東京府知事)、徳川家達(貴族院議長)、大岡育造(衆議院議長)、奥繁三郎(後の衆議院議長)、蜂須賀茂韶(枢密顧問官)、奥保鞏(陸軍大将)、井上良馨(海軍大将)、戸田氏共(宮内省式部長官)、水野錬太郎(内務次官)、下岡忠治(枢密院書記官長、次期内務次官)、井上友一(内務省神社局長)、小橋一太(内務省土木局長)、堀田貢(内務省参事官)、山田準次郎(内務省参事官)、大谷靖(内務省会計課長)、近藤虎五郎(内務省技師)、市来乙彦(大蔵省主計局長)、福羽󠄂逸人(宮内省内苑頭)、山川健次郎(東京帝国大学総長)、三上参次(東京帝大文科大教授)、萩野由之(東京帝大文科大教授)、伊東忠太(東京帝大工科大教授)、関野貞(東京帝大工科大学教授)、荻野仲三郎(東京女子高等師範学校教授)、加えて東京帝大農科大学からは川瀬善太郎と本多静六が選任された。
リーダーはあくまでも渋沢栄一であり、実務面を静六が支える立場となることは、当初からメンバー全員の共通認識であった。
最初の問題は、そもそも明治神宮をどこに建設するかだが、ここで早くも渋沢と静六の間で大論争が勃発するのである。
最初から建設地については議論百出であった。
上野公園や市ヶ谷、目白台、小石川植物園、果ては富士山など、数多くの意見が出たが、渋沢は青山から代々木の場所が最適であると断言した。
そもそも大葬は青山練兵場で営まれている。ここに神宮を設置すれば、葬儀で轜車(じしゃ)(貴人の葬儀に際し棺を載せて運ぶ車)が安置された葬場殿址を敷地内に包含することが出来る。
それに青山練兵場は日清・日露戦争の凱旋大観兵式が挙行された明治天皇ゆかりの場所だ。すでに原宿駅が開業しており、交通も至便である。
非の打ち所のない選定だと思えたその時、大胆にも渋沢案に反対した人物がいた。
ほかならぬ静六であった。
青山周辺の土地は粘土質である上、長年にわたって練兵場として使われるうちに踏み固められている。これでは針葉樹はおろか広葉樹であっても植林は至難の業だ。
おまけに煙害から守るため、近隣に石炭を使用する工場の建設を禁止せざるをえず、青山のみならず新宿、渋谷あたりまでの工業の発達を阻害せざるを得ない。
「それは市街の発展を妨げると同時に市民の苦痛を惹起し、かえって明治大帝の大御心にもとることとなるのでは? 多摩川や荒川の上流、あるいは箱根で適地を見つけるべきです」
静六の意見は新聞や雑誌にも大きく報じられた。
だが渋沢は、東京市民の思いを汲み、明治神宮を東京に鎮座させたい一心で明治神宮奉賛会を立ち上げ、寄付を募ろうとしているのだ。
「今度だけは賛成してもらいたい。人工で天然に負けない大風景を、大森林を、代々木の地につくり出してくれないか」
渋沢から説得され、静六は反対するのをやめた。渋沢の性格は重々承知している。もうこの老人は何を言っても考えを変えないだろう。
覚悟を決め、
「それならば未熟なる今日の学術と建築などで、非常な立派なる神苑を作り上げて見せましょう」
と応じた。
彼の言葉に矛盾があるのは皮肉が込められているからだ。〝未熟なる今日の学術と建築〟で〝非常な立派なる神苑〟など作れるはずがない。
これが不可能への挑戦であることを、渋沢に理解してもらいたかったのだ。
渋沢は静六に無理を押しつけただけではなかった。
もうすでに古稀を過ぎているというのに、懸命になって資金集めに奔走してくれた。神宮内苑こそ国費が使われたが、神宮外苑に関しては明治神宮奉賛会の寄付でまかなう目処が立ったのは、渋沢の努力の賜物であった。
陰陽思想の影響か、伊勢神宮に内宮と外宮があり、京都には上賀茂神社と下鴨神社があるように、明治神宮にも内苑と外苑の建設が計画された。
原宿駅近くの神宮内苑だけが明治天皇を祀っている神社だと思っている人も多いが、実はそうではない。神宮外苑も参道としてのイチョウ並木があり、拝殿としての絵画館があり、絵画館の背後には葬場殿址がある。れっきとした神社形式なのだ。
そして内苑は普通の神社と違い複雑な構造をしている。それは井伊家(その前は加藤家)の屋敷跡の庭を無駄にせず、霊泉とされる清正井(きよまさい)を手水(ちょうず)に見立て、これを取り込んだためである。
青山から伸びる表参道とは別に、裏参道にあたる北参道を神宮外苑の北西角に連結させる工夫もした。その結果、シンメトリーからはほど遠い構造となる。おまけに一般的な神社の境内にあたる部分は内苑の一五分の一にすぎず、ほとんどが森(神苑)で構成されることとなった。
ここからが静六の腕のふるい所である。それは不可能を可能とする奮闘のはじまりだった。
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