【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #28
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【銀行王 安田善次郎】
第三章 飛躍のドイツ留学 (12)
四分の一天引き貯金
静六は帝国大学の助教授になった二十五歳の時、人生計画を次のように定めた。
四十までは勤倹貯蓄、一途に奮闘努力して一身一家の独立安定の基礎を築く。六十までは専心究学、大学教授の職務を通じてもっぱら学問のため国家社会のために働き抜く。七十まではお礼奉公、七十からは山紫水明の温泉郷で晴耕雨読の楽隠居。
彼は「良き人生は良き人生計画にはじまる」と語り、自著『人生計画の立て方』の中で、やや暑苦しいまでの力を込めて人生計画の重要性を強調している。
〈我々は三度の食事にもあらかじめ献立というものを作る。ほんの目先のごく短期間の行動ですら、多少の計画性を加えると三度の食事が極めて楽しく生きてくる。
まして我々が一生を通じてやる生活行動、全生涯の生き方に対しては、何人もよほど慎重な態度でこれを組織的計画的かつ創造的に充分考えてゆかねばならぬことが分かるであろう。
我々はすべからく、静かに過去を思い、現状を直視し、将来を達観して、避けず、恐れず、強固なる意思をもって一生の生き方に組織的な計画性を与えなければならない。大切な全生涯の活動に秩序的能率的な一大プランを添えなければならぬ〉(『人生計画の立て方』)
人生計画を立てるだけでなく、それが計画通り進んでいるかを時折振り返り、一喜一憂しつつ改善点を見いだす。彼はそのことを生きがいとした。思い通り行く時ばかりではないが、せっかくの人生、精一杯楽しまなければ。だから食事の献立などという身近な例で、我々にその効用を説いたのだ。
一気に奏任官にかけのぼった静六だが、彼が目指したのは昔の役人のように旧大名屋敷に住んで裕福な暮らしをすることではなかった。
しかし貧乏はもうこりごりだ。
(貧乏を克服するには、貧乏をこちらからやっつけねば)
そのために立てた彼の最初の人生計画が、本多式〝四分の一天引き貯金〟だった。
帝国大学の月給などの通常収入は天引きで四分の一を貯金し、ボーナスや原稿料や講演料、旅費の残りなどの臨時収入は全部貯金する。利子は通常収入と見なし、四分の三は生活費に充当するというものだ。
これを彼は、帰国後すぐの満二十五歳の時からはじめた。
〝四分の一天引き貯金〟は、何も自分の発明ではないと彼は言う。お釈迦様も貯蓄の大切さを説いているほか、松平定信や二宮尊徳といった天引き貯金の先達もいる(『私の財産告白』)。
だが彼の場合、何より不二道の影響があったに違いないのだ。
不二道には〝飯米量り出しの行〟というのがある。一日に食べる米を桝に量ってから一握りを残し、災害時の救援用に蓄えるというものだ。
おそらく静六にとって〝四分の一天引き貯金〟は〝行〟だったのだろう。
そして〝四分の一天引き貯金〟によって彼は貧乏を克服したのみならず、恩を受ける側から与える側へと、人生を大きく転換していくのである。
ところで、なぜ〝四分の一〟だったかなのだが、ここからは筆者の推測である。
この当時、勤倹貯蓄で最も有名だったのが〝銀行王〟安田善次郎だった。〝ケチの安田〟と陰口をたたかれたほどの倹約家である。
家出同然で富山から江戸に出てきて商家に奉公し、独立して両替商の安田屋を開店。太政官札の両替で巨富を築くと、その後も抜群の商才を発揮して安田屋を安田銀行(後の富士銀行、現在のみずほ銀行の前身)に改組。渋沢栄一の第一国立銀行と肩を並べる大銀行に成長させる。
その金融ノウハウは群を抜いており、大蔵省の高官が「銀行のことは安田に聞け」と言ったといわれているほど。そして、ついには三井、三菱に匹敵する大資産家となった立志伝中の人物だ。
静六も当然意識しており、日頃から大変尊敬していた。二人の不思議な縁については後に触れる。
その安田は安田屋を開いた際、〝生活費は収入の十分の八以内に止め、残りは貯蓄する〟という誓いを立てた。〝五分の一天引き貯金〟と言ってもいいだろう。筆者は、静六が〝銀行王〟安田善次郎の上を行ってやろうとしたのではないかと思うのだ。
日本一の倹約家を越えてみせるというわけだ。
さて、現実はどうなったかを見てみよう。
奏任官の年俸は八〇〇円。小学校教員の初任給が八円弱という時代だから、現在価値にして二七〇〇万円ほどになる。
そのうち製艦費として一割を差し引かれた。
製艦費とは、静六が帰国した翌年の明治二十六年(一八九三)から、文武の官僚の給与より一割が天引きされるようになった帝国艦隊建設のための税金である。皇室も内廷費を削減し、その一部を充当するとした。富国強兵に向けて国家のリーダーが範を見せたわけだ。時代の熱が伝わってくる税金である。
日清戦争はその翌年に勃発する。
製艦費が引かれて手取りが七二〇円、月にして六〇円である。その中からさらに恩給基金(今の年金)等の控除があって月給は五八円ほどになる。現在価値にして一七〇万円強といったところだろう。
まずこれだけあれば夫婦二人の生活には充分なはずなのだが、養父母の面倒まで見ることとなり、〈初めの生活は全くお話にならぬ苦しさであった〉と述懐している(『私の財産告白』)
だが二、三年経つとお金は貯まり、利子が入ってくる。
利子の四分の三は生活費に回すことができる。つまり月給と利息の共稼ぎになるのだ。これで天引き生活は次第に楽になっていった。
明治二十五年(一八九二)の六ヵ月定期金利は金融機関によって多少ばらつきはあるものの四・四%前後、明治三十年(一八九七)で約五・九%、明治三十五年(一九〇二)で約六・九%だった(『値段の風俗史 下』週刊朝日編)。
だが意外にも当時の日本人の貯蓄意欲は低く、もっぱらタンス預金だった。金融機関の信用が低かったためである。本多家も銀行の破綻で苦労したことは先述した。
銀行に預けるお金を預金といい、郵便局に預けると貯金というが、静六は決して〝四分の一天引き預金〟とは言わなかった。
それはそうだろう。義父が銀行に預けていたお金を一気に失って仕送りが止まり、爪に火をともす思いで苦労しながら卒業したのだ。金融機関は信用が第一というのは、今も昔も変わらない。
当時の金利は高かったとは言え、ただ貯めていくだけでは大資産家にはなれない。デフレならタンス預金をしていても大きな影響はないが、インフレになればお金の価値は一気に目減りする。
だがそれでも貯蓄は資産形成の基礎なのだ。
「何人も〝貯金の門〟をくぐらずに巨富には至り得ない」
という静六の言葉は至言である。
現代で言えば、五万円の投資が成功して一〇万円になっても豊かになれないが、五〇〇〇万円が一億になると生活が変わる。そういう意味でもタネ銭は重要だ。〝四分の一天引き貯金〟はまさに〝雪達磨の芯(タネ銭)〟を作る作業だった。
タネ銭ができたところで、静六はブレンターノ教授の言葉を思い出し、まずは鉄道株に投資した。
銘柄は日本鉄道。静六の記憶では一二円五〇銭払込のもの三〇株だったという。現在価格にして一一〇〇万円強の投資である。
日本鉄道は日本初の民間鉄道会社だ。西南戦争で疲弊した政府に代わり、東京から青森までの鉄道を敷設し、北海道開拓を助けようとする目的で作られた。民間とは言っても岩倉具視以下の華族が賛同し、渋沢栄一などが参加して運営する国策会社だ。国有地を無償提供されるなど国家の支援は手厚く、半官半民と言っていい。
当時の企業の平均配当は八%前後だが、日本鉄道の配当は一〇%だった。
優良会社で高配当。言うことなしだと買い増して、やがて日本鉄道株は三〇〇株に積み上がった。すると明治三十九年(一九〇六)、鉄道国有化法が制定されたことで日本鉄道の国有化が決定し、払込価額の二倍半で政府に買い上げられることとなる。
これでまず、ひと財産できた。この段階ですでに資産は現在価値にして一〇億円を越えていたという。こうして静六の〝雪達磨〟は静かに、しかし悠然と転がりはじめたのである。
主な鉄道は国有化された一方で、民間の電鉄会社の設立ブームが訪れたが、静六は財務体質の脆弱な私鉄の経営に危うさを感じていた。そこで鉄道株から離れ、ガス、電気、製紙、麦酒、紡績、セメント、鉱業、銀行など三〇種以上の業種にわたり、優良株を選んで分散投資を始めた。
そもそも当時の株式のほとんどが、現代で言う高配当株でありバリュー株だという最高の投資環境だったが、一方で値幅制限といったリスク回避の制度はない。景気には波があるし、やはり株式はリスク資産だった。
実際、〝電力の鬼〟松永安左エ門などは株式投資で全財産を失っている。松永が保有していたのは横浜電鉄株。日露戦争後の株式急騰で一時は大儲けしたが、欲をかいて上値を追っているうちに大暴落。四〇〇円の株が一気に二八円ほどになってしまった。
静六がリスク回避した私鉄株にしてやられたのだ。投資で肝要なのは、勝つことではなく負けないことであると痛感させられる。
株式投資を始めるにあたって、静六は先人の手法に学びながら投資ルールを決めていた。
先述の安田善次郎の投資スタイルは〝六分売り、八分買い〟というものだった。六%の利回りの割安銘柄を狙って購入し、八%の利回りになったところで売却するというものだ。
こうした投資の先達のノウハウを自分なりにアレンジしながら、独自に編み出したのが〝二割利食い、十割益半分手放し〟というものであった。
まず大事なのは、なんと言っても銘柄の選定である。その会社は将来性があると思えなかったらどれだけ割安でも手を出さない。
そして買うと決めたら、まずは先物買いで様子を見る。現引きする期限までに価格が上昇した場合は買い値の二割の利益が出たらすっぱり利食い売りする。
先物で買ったが値段が下がって現引きし、その株式の現物を保有することになった場合、その後、価格が二倍以上になったら利益部分の半分だけを売却して残りはホールドする。逆に下がっている場合、自信があって買った株なので塩漬けにしておく。
加えて心がけたのは〝時節を待つ〟ということだ。
好景気時代には倹約貯蓄を、不景気時代には思い切った投資を、時機を逸せず巧みに繰り返す。焦らず、怠らず、好機が来るのを待つことが彼の投資成功の鍵であった。
時を越えて、静六は我々にこう語りかけている。
〈世の中には、濡れ手で粟をつかむようなうまいことがそうざらにあるわけのものではない。手っ取り早く成功せんとする人は、また手っ取り早く失敗する人である。
蓄財を通して、我々はいろいろの蓄 積法を学ぶ。力の蓄積、知識体験の蓄積、徳の蓄積等はそれであって、金銭の場合よりもむしろ、この蓄積の方が大事な場合がある〉(『人生計画の立て方』)
勉強も仕事も精神面の修養もすべては蓄財の糧になり、同時に蓄財を通じ、我々は大切なものを学ぶことができるというわけだ。
やがて静六の株式総額は数百万円にも達した。現在価値にして一〇〇億円近い。その後、資産はさらに増えていくことになる。
最後に『私の財産告白』の中から、彼の名言をいくつかあげておこう。
・個人が信念を貫くためには財産が必要。
・経済の自立なくして自己の確立(精神の確立)はありえない。
・「漏らさない力」こそ蓄財の秘訣。
・貯金生活を続けていく上に、一番のさわりになるものは虚栄心。
・お金のあるところには、またいろいろ知恵が湧いてくる。そして、ますます面白い投資先が考えられるようになる。
・「まず始めよ」の精神が運命を変える。何ごとも手を着けてしまえば、自然とうまくいく。
・貸すな、借りるな、を戒律とする。
・金を馬鹿にする者は、金に馬鹿にされる。財産を無視するものは財産権を認める社会に無視される。
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