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【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #50

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永遠の森50

【武蔵嵐山の名付け親 本多静六】

第四章 緑の力で国を支える (20)
わが国公園の父

日比谷公園の設計で自信をつけた彼は、その後も講演などで市民の健康増進のための公園の重要性を力説し、求められると自らその設計にあたった。
彼の携わった公園は、北は北海道から南は鹿児島県の三二都道府県に及ぶ。県別で見ると、長野県は六ヵ所、埼玉県と愛知県は五ヵ所もある。
〝大小合わせて数百に及ぶ〟と記しているのは、少し相談に乗ったものも含めたものだろうが、本多静六博士顕彰事業実行委員会が編纂した『日本の公園の父 本多静六』には六一ヵ所が記載されており、十分驚嘆に値する数だ。
まさに〝わが国公園の父〟と呼ぶにふさわしい。
すべての公園について触れることは紙幅の関係でできないが、その中のいくつかをご紹介しておきたい。

大正五年(一九一六)、静六は北海道釧路市の釧路公園(現在の春採公園)を設計している。
公園の開園は地元民の悲願であった。熱い期待を背負い、設計に先立って現地を視察に訪れている。
静六は出張の際の時間の使い方にもこだわりがある。汽車や船の中では寝だめをする。そして宿に着くなり、持参した資料に徹底的に目を通す。
公園を整備するためには、地勢、気候、風土はもちろんのこと、歴史、伝説、さらに住民の人情、風俗、習慣、経済状態など該博な知識が必要だというのが彼の持論であった。
釧路市の視察の際も、ほとんど徹夜で準備を整え、朝六時から視察に出掛けて人々を驚かせた。
そんな超人伝説の一方で、視察の途中で割れたガラスの破片で怪我をした子どもを見かけ、やさしく手当てしてあげたという美談も伝わっている。地元の人とふれあうことで、その土地の人情を知ることにもなったはずだ。
こうして彼は一つ一つの公園を、しっかりと愛情を注ぎながら設計していった。開園してもそのままにはせず、釧路公園に関しても、昭和一二年(一九三七)に改良設計を手掛けている。改良設計の依頼がしばしば寄せられたのは、当初の設計の評判がよかったからに違いない。

大正九年(一九二〇)に改良案を提言したのが、明治政府の指定した第一号公園の一つであり、徳川光圀(みつくに)の開園した名園として知られる水戸常磐公園(現在の偕楽園)であった。
調査してみると誠に素晴らしい。優れた技術で斬新な様式を用いたものであることに感動し、静六はわが国の三名園(金沢の兼六園、岡山の後楽園と水戸の偕楽園)中最も優れた公園であると高く評価している。
当時、園内には運動場が作られ、多くの記念碑が建てられていた。
そこで出した改良案は、運動場を廃し、記念碑を少なくし、桜山と千波湖との連絡を復旧しようというものだった。つまり復旧保全が中心だったのである。
彼の公園作りが、人工的に手を加えるものばかりでないことを示している。

名瀑として知られる養老の滝を中心とする養老公園(岐阜市養老町)は明治一三年(一八八〇)に開園されたが、その後、鉄道が開通したこともあり、静六のところに改良設計の依頼が来た。大正元年(一九一二)、改めて開園されたが、当時、お土産品として売り出された養老酒と養老豆は静六の提案によるものだ。
彼は今で言う〝町おこし〟のパイオニアでもあった。それは故郷埼玉でも発揮されている。
埼玉県に比企郡菅谷村というところがあった。静六が生まれた河原井村から西に二〇キロほどの場所だ。
昭和三年(一九二八)のこと、彼はこの地を訪れた。外秩父山地の外縁部にあたり南北に八王子構造線が貫いていることから渓谷が続く。その風景が京都の嵐山によく似ていることに気づいた静六は、この地を〝武蔵嵐山〟と名づけた。
地元の名士でもある静六の影響力は抜群だ。
てきめん有名になり、時ならぬ嵐山渓谷ブームが起こった。人々が大挙して訪れたことから、東武東上線菅谷駅は武蔵嵐山駅と駅名を変更し、町制施行時に晴れて嵐山町(らんざんまち)となった。
自然の残るこの地はオオムラサキの生息地として知られ、夏にはホタルが飛び交い、秋には一面燃えるような紅葉となる。今は年間を通してバーベキューを楽しむ家族連れで賑わっている。
静六の町おこしの代表的な成功例であろう。

大濠公園(福岡県福岡市)は大正一三年(一九二四)に新設の公園として静六によって設計され、昭和四年(一九二九)に開園された。
まったく一からであるという点では、東京の日比谷公園に並ぶものと言える。
福岡城の外堀を公園内の池として利用し、その池の中の島を橋でつなぐ優雅な構成にした。ちなみに菖蒲島、松島、柳島は彼の命名によるものだ。
景勝地として知られる中国の西湖をモデルにしたものでは、という噂が流れたほど風光明媚で、今ではすっかり福岡市民の憩いの場だ。国の登録記念物にも指定されている。
城址、寺社境内、景勝地などの公園設計にあたっては、その場所のもつ歴史の重みを考慮し、旧形状が想像できることに意を用いたが、その一方で、静六の目は常に民衆に向いていた。
文化財や自然も民衆の目に触れられないようでは宝の持ち腐れだ。そのため、自然を破壊しない程度にケーブルカーやロープウェイを整備することにも積極的であった。
そうして整備した公園の一つに和歌山公園がある。

大正元年(一九一二)、紀州徳川家の旧居城一帯六万二〇〇〇余坪が公園用地として国から和歌山市へ払い下げられた。そして和歌山市は、同県出身の川瀬善太郎を通じ、静六に公園の改良設計を依頼してきたのだ。
静六の公園改良案は、和歌山城城址にレクリエーション施設の要素を組み合わせるものであった。
動物園に水禽園(すいきんえん)、木造の橋を設け、園内の植物には名前を記した名札を付した。市内を見渡すパノラマ図を置いた展望台や、人工滝をあしらった池泉やテニスコート等の運動場も併設した。
こうして和歌山公園は大正四年(一九一五)、再整備の上で開園された。

これに激しい批判を加えてきたのが、この地出身の民俗学者・南方熊楠(みなかたくまぐす)だ。旧跡を破壊するものだというのである。
静六より一歳年下で、広く世に知られた知の巨人だ。ちなみに川瀬と南方は和歌山中学時代の同級生であり、明治一九年(一八八六)夏には二人で高野山に登っているほど仲が良かった。
(お前の同僚の教授はなんということをしてくれたのだ)
という思いだったのだろう。
南方の批判は激烈なものであったが、静六の声望を落とすには至らなかった。
むしろ日本を近代化していく過程では静六の方向性の方が正しいとして多くの支持を受け、その後も公園の設計依頼はあとを断たなかった。
ただ南方は執念深い。その後も静六の行動に対し、執拗に批判を加えてくることになった。

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