【北康利連載】二宮尊徳~世界に誇るべき偉人の生涯~ #26
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第二六回 小谷三志との出会い
さすがの金次郎も、領内の対立がここまで深まっては自分の非を認めざるを得ない。陣屋で政務を執ることを一時やめ、自宅に謹慎し、文政一一(一八二八)年五月一六日、勤番辞職願(役儀願書)を小田原藩江戸屋敷に提出した。
長文の辞職願には、金次郎の苦しい胸のうちがつづられていた。
思い返せば桜町仕法は誠に厳しい日々であった。仕法開始直後の苦労をともにした代官の高田才治や主席だった勝俣真作は過労が祟(たた)ってこの世を去っており、横山周平も病床に伏している。
「私一人相残り夏の虫の火に入る」がごとき心境であり、「当年の私は薬を服用しても病状が好転せず、温泉療養か転地療養をしたいので役職を免じていただきたい」と愁訴した。
しかし小田原藩ではこれを「預かり」とし、辞職を認めなかった。
金次郎は窮した。そうした時、人は宗教によりどころを求めがちだ。
彼は小谷三志(こだにさんし)という宗教家のことが以前から気になっていた。
小谷は富士講の一派である不二孝(不二道)の第八世大行者である。桜町でよく励んでいる村民を表彰すると、しばしば不二孝の信者だった。この教えは明らかに彼らにやる気を与えている。俄然興味が湧いた。
辞職願を出した三ヵ月後の八月六日、信者である桜町の村民たち(金兵衛、甚左衛門、宇兵衛、弥七、供次)を連れだって、宇都宮に来ていた小谷に会いに行った。
農閑期ではない。いつもなら決して彼が取らなかった行動だった。
富士講は富士の山霊から災難除けや病気を治す御利益をいただこうとする民間信仰である。地域ごとの枝講に分かれ、一時は富士講八百八講と呼ばれるほど多くの講が生まれた。栢山にも富士講があったはずで、二宮家も加入していた可能性は十分ある。
富士登拝の際には白装束に身を包み、講の名前を墨書した菅笠を持ち、鉢巻きをし、杖をつく。信者はしばしば地元に富士塚を造った。これを〝ミヤマウツシ〟と呼ぶ。
塚の山頂に富士山の溶岩などを埋め、富士登拝を疑似体験できる遙拝所(ようはいじょ)としたもので、今でも都内を含め各地に残っている。
小谷は鳩ヶ谷(はとがや)(現在の埼玉県川口市)で代々麹(こうじ)屋を営む裕福な商家の出であった。
夫婦和合、家業出精、倹約勤勉、相互扶助などの日常的道徳実践を説き、「幸も不幸も自分がつくる。自分の生き方が大切」として、御利益を求めていた富士講を変革し、教理を持った教団に改革していった。
それは二つとない教えであるという意味で〝不二孝(道)〟と名付けられ、教えのわかりやすさから信者は関東を中心としながら九州に及び、その数五万人とも十万人ともいわれるようになっていた。
不二孝では信仰を深め克己心を涵養(かんよう)するべく、さまざまな〝行(ぎょう)〟が行われた。
米飯に塩のみをかけて食事する塩菜(えんさい)行、酒・煙草断ち、冷水をかぶる水行のほか、社会への報恩を示すため、道路・橋・堤防などの土木改修工事も〝行〟として無償で行った。
当然、地元の人々からは感謝される。地域と共存する手法をとっているという点にも金次郎は感心した。
行を行った際には、〝行帳〟と呼ばれる帳簿に「塩菜行十日間何某、煙草断十日間何某……」といったように記し、記録を残していく。それが彼らの励みでもあった。
そして行によって倹約した〝余徳〟は、富士登拝などにかかる費用や信者間相互扶助のための蓄えとなったのである。
勤倹の教えや余徳を推譲する考え方は金次郎の報徳思想に極めて近く、共感するところ大である。この信者なら、表彰されるような出精人になるのは自然なことだと思えた。
こうして二人は長年の知己の如くに親交を深めた。
桜町に帰った九月二九日、礼の意味だろう、四両二分の金とともに道歌を贈っている。
「二と三と一つたがえど」というのは二宮と三志のことを指している。また、ともにという言葉を「友に」と書いているところに、金次郎が小谷に寄せた思いが汲み取れる。彼はよき「心の友」を得たのである。
文政一一(一八二八)年は凶作の年となった。
前年には一八二五俵にまで回復していた桜町領の米の収穫量が九八一俵に半減した。豊田の仕法妨害により新田開発は滞り、木綿の生産もいつしか行われなくなっていた。
豊田が金次郎を否定しようとすればするほど、結果は裏目に出る。それでも豊田は金次郎の手を借りようとしなかった。
双方の対立は一層深刻なものとなり、金次郎は一一月一六日から一二月一一日まで出仕せず家に引きこもった。
本連載は会員制雑誌である月刊『致知』に掲載されている連載を、致知出版社様のご厚意で一ヵ月遅れで転載させていただいております。
次回は10月4日更新予定です。