【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #10
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第二章 暗い井戸の底をのぞき込んだ日 (3)
落第をチャンスに変えて
入学当初、東京山林学校は三年制で、前期と後期に分かれていた。
今で言う教養課程にあたる前期では、植物、動物、物理、化学、地質学、数学、山林歴史などの基礎科目を学び、後期は専門科目として山林植物学、山林動物学、造林学、山林保護法、山林測量術、樹木測知法、山林利用論、営林規法論、林政論、法律論、経済論、林価算定法を修得することになっている。
ところが入学からわずか二ヶ月後、いきなり修業年限が五年に延長された。五年制の山林学校というのは世界にも例がない。即戦力を養成しようという明治政府の強い思いが感じられる。
カリキュラムも大幅に改正され、練兵術、代数学、幾何学、金石学、図画学、三角術、分析化学、森林土木学、森林禁樵論などが加わり、実習が増え、特に最終学年はほとんど実習に当てられることとなった。
この入学早々のカリキュラム変更によって代数と幾何が加わったことは、静六に大きな負担となってのしかかってきた。懸命に勉強したものの、中学で基礎から学んできている者とピタゴラスの定理にヤマをかけて入学した者の学力差はにわかには埋まらない。
とうとう七月の一学期試験で、幾何と代数のどちらも四五点をとってしまう。追試も何もなく、一度の赤点で落第が決まった。
静六のショックは大きかった。家族は養蚕での稼ぎを全部仕送りに当てて応援してくれているのだ。母や兄に合わせる顔がない。
(いっそ死んでお詫びしよう)
静六はそう思い詰めた。
この時の彼の気持は、日本中の期待を一身に背負って出場するオリンピック選手に似ている。この当時、上級の学校で学ぶ学生は同学年の一パーセントにも満たなかった。静六は今の学生とは比較にならない社会的責任を背負っていたのだ。
先立つ不幸を詫びながら遺書をしたためた静六は、夜の一時ごろ、こっそり寄宿舎を抜け出し、建物の裏に出た。そこの薮の中に古井戸があることを知っていたからである。
誰にも見つからず、首尾良く井戸端にたどり着いた。
古井戸をのぞき込むと底の水が月の光に照らされてわずかに光っていたが、漆黒に包まれて実際よりずっと深く見える。まるであの世への入口のようだ。この瞬間、死の誘惑が確実に静六を捉えていた。
(えいっ!)
意を決して頭から逆さまに滑り込もうとした。
だが彼はがっしりした体つきだ。入口でつかえてしまった。
その瞬間、脳裏に祖父の言葉が浮かんできた。それは上京するとき、郷土の偉人塙保己一の例を出して激励してくれたあの言葉だった。
「塙保己一は盲目でありながら六三〇巻あまりの群書類従を著したのだ。目の見えるお前が保己一以上の勉強を続けたならば、もっと大きな仕事ができるはずじゃ」
しばらくその妙な格好のまま、祖父の言葉を反芻していたが、そのうち落第したことよりも〝諦めて人生から逃げようとした〟ことのほうが情けなくなってきた。
こうして静六は井戸の中から這い出し、部屋に戻ると遺書を破り捨てた。
(死んだつもりで、もう一度やり直そう)
そして翌日の早朝、島邨のところに行き、落第したことを包み隠さず報告して頭を下げた。ただ自殺未遂のことは黙っていた。
島邨は成績表を手にとって子細にながめていたが、やがておもむろに口を開いた。
「動植物も物理や化学もみないい成績なのに、幾何と代数が五点ずつ不足で落ちたのは誠に残念だ。しかしこれくらい勉強して落ちたのだから差し支えはない。ビリで及第するより、もう一度初めからやり直すほうが将来のためだ。失敗は成功のもと。元気を出してさらに大いに勉強したまえ。落第のことは保証人たる私一人に話しただけで、君の役目は済んだ。郷里へは誰にも一切知らせる必要はない」
そう言い終わると、静六の見ている前で成績表をビリビリに引き裂いてくずかごに入れてしまった。
はっと思ったその瞬間、重しがとれたようになって、急に明るい気持ちになった。
「これから幾何と代数をしっかり勉強しなさい。何事も努力だ。一心に立ち向かったらなんとかなる。この次には立派な成績でみんなを驚かせてやれ!」
この言葉を聞いて本当に救われた気持ちになり、前を向くことができた。
島邨は約束通り、落第の件は郷里へはもちろん、奥さんにすら話さなかった。この慈愛ある計らいがなかったら、静六はどうなっていたかわからない。教育者とはどうあるべきかを深く考えさせられるエピソードである。
後に静六は東京帝大や東京専門学校で教壇に立ち、三六年間教育に携わったが、その間一人の落第生も出さなかった。それは、この時の苦しみが骨身に沁みていたからであったという。
エキス勉強法
東京山林学校は二月募集と九月募集の生徒がいるので、静六は落第によって九月募集の生徒に編入され、半年の遅れが出ることとなった。
それからというもの、猛烈に勉強しはじめた。ところが、あまりに熱心に勉強しすぎて運動不足になり、体力が落ちて胃病と眼病を煩ってしまう。これではいけないと反省し、また勉強に工夫を加えることにした。
そして考え出したのが、本多静六伝説の一つ〝エキス勉強法〟である。
毎日、授業でとったノートを帰宅後見直して推敲した上、さらに通読してどこが一番重要な箇所かを見極め、改めてそれを要約していく。それが試験前になると、一つの学科で二、三枚から五、六枚になる。
これをポケットに入れて散歩に出かけ、歩きながら口の中で暗唱するのだ。
勉強と運動が同時にできるから体は丈夫になり、試験だからといって健康を損なうことはなくなった。もっとも、集中するあまり牛や馬にぶつかりそうになることさえあったという。
その後もエキス勉強法は威力を発揮し続けた。自分が教える側になってからもエキスをまとめることを繰り返し、それが自然とまとまって本になった。彼が生涯に三六〇冊を超える著作を残せたのは、このエキス勉強法のおかげだったのだ。
もう一つ、この勉強法には効能があった。それは物事を整理してまとめる力がついたことである。静六の著作の特徴は、財産の作り方や健康法など、それぞれのトピックに関して箇条書きで何点かを列挙するというスタイル。これは頭の中が整理されている証拠である。
人生の早い時期にこうした良い癖、良い習慣を身につけることの大切さを痛感する。それがまさに〝人生に投資する〟ということなのだろう。金銭の投資同様、その果実は年月が経つほど豊穣なものとなって返ってくるというわけだ。
エキス勉強法がいかに効果を発揮しようと、暗記するだけでいい点は取れない。
そこで静六は試験の時になると、エキスに自分の意見を加えた。すると個性を発揮した答案ができる。これ以降、試験がかえって面白くなった。
落第のきっかけとなった幾何も、一〇〇〇題あった問題集の問題を一題残らず三週間ばかりでやってのけ、次の学期からは小試験ごとに一〇〇点ばかりとり、断然トップで進級することができた。
ついには幾何の担任の先生から、
「君は幾何の天才だから、もう出席しなくてよろしい」
と言われるまでになったという。
教室の席順は定期試験の順位によると定められていたが、静六の席は一番前が定位置になり、二回続けて最優等をとって銀時計を下賜された。
努力によって、禍転じて福となすことができたのである。
当時のことだから、静六が銀時計を授与されたことは新聞記事にもなった。島邨先生は我が事のように喜んでくれ、奥さんは近所の人にまで吹聴して回った。落第したことは島邨先生以外知らないとはいえ、内心冷や汗が流れた。
その後、静六は落第によって失った半年の遅れをなんとか取り返そうと画策する。周囲より若くして入学しているのだから多少回り道をしてもたいしたことはないはずだが、静六の自尊心はこれを許さなかった。人生の時間の使い方に関して、彼は極めて貪欲だったのだ。
そして静六は、意外な形でこの半年分を取り返すのである。
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