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【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #19

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永遠の森19

【ドイツ林学の祖ハインリッヒ・コッタ】

第三章 飛躍のドイツ留学 (3)
ドイツ林学とターラント山林学校

ここで少し、当時のドイツ林学について解説しておきたい。
そもそもヨーロッパにおける森林は、童話『ヘンデルとグレーテル』のそれのように、従来は魔物の住む恐ろしいものとされていた。
それを近代に入ってヨーロッパの人々は人工的に手を加え、天然資源として収益を生むものに変えていった。中でもドイツは職人学校(マイスターシューレ)を設け、高級森林官(フォルスター)制度を早くに導入するなど、林学の先進国となっていく。
草創期のドイツ林学は、当時のヨーロッパを席巻していたロマン主義の影響を色濃く受けている。
ロマン主義は、一八世紀末から一九世紀前半にかけてヨーロッパ各地で展開された、芸術・思想上の自由解放を目指す革新的思潮のことである。教条主義によって抑圧されてきた個性の解放を企図し、自由な表現を追求する文芸運動となって開花した。
それは自然を賛美する運動でもあり、この頃のドイツの音楽には森がしばしば登場する。モーツアルトの『魔笛』は森のオペラであり、ベートーベンの田園交響楽もハイリゲンシュタットの森から着想を得たものだ。交響曲第九番の『歓喜の頌』はロマン主義運動の中心人物だったシラーの詩だが、シラーの岳父カール・レンゲフェルトは各地の首席森林官(オーバーフォルストマイスター)を歴任した林学の先駆者であった。

一方で、近代化のもたらした経済成長は木材消費を急速に増大させた。
木材不足に苦しんだザクセン王国は、ハインリッヒ・コッタをザクセン森林計画局長として招聘する。後に〝ドイツ林学の祖〟と呼ばれる人物だ。
「森づくりは科学であり芸術である」
という、コッタの有名な言葉がある。
ゲーテやシラーとも交流のあったコッタは、ロマン主義的思想を林学に導入した。それは自然の森林本来の状態を維持しつつ、木材を継続的に収穫するという〝恒続林〟を前提とした近代林学であった。
静六が後年、明治神宮の森を伊勢や日光のような森にせず自然林にしようとしたことにも、ドイツ林学のロマン主義的美学が受け継がれている。

コッタは、従来あった木こり養成のための職人学校よりもはるかにレベルの高い林学専門学校として、文化八年(一八一一)五月二四日、ターラント山林学校を設立。それがどれほど意義深いものであったかは、この日が今も近代林学誕生の日とされていることでもわかる。
ターラント山林学校の特色は、演習用に世界最古の森林植物園(演習林)が併設されていることである。

「高級森林官は講義室からだけでは生まれない。森の中で森を学び、森の中で各種の林業従事者から学んでこそ彼らは育成されるのだ」
(『森林業 ドイツの森と日本林業』村尾行一著)

というコッタの思想が反映された結果だった。
彼がわざわざザクセン王国の首都ドレスデンの中心部にではなく、ドレスデンの南西郊外にある田舎町のターラントに学校を設立した理由はまさにここにあった。
こうしてコッタの指導により、林学の技術部門としての造林学、森林保護学、森林利用学、砂防工学に加え、経済部門の林政学、森林経理学、森林経済学が飛躍的に発展していくのである。

明治二三年(一八九〇)五月八日木曜日、粉屋のおかげでなんとかターラントに到着した静六は、駅に荷物を預けたまま、志賀泰山からの推薦状を手に学校に向かった。
「万事取り計らってくれるよう頼んであるから」
と志賀から言われていた助教授のシュミット博士に会うためだ。
ターラント(Tharandt:今はタラントと表記される方が多い)は人口二〇〇〇人にも満たない小さな町だが、街中の道路は広く、町中を流れる川にかかる橋がどれも見事な切石の眼鏡橋で実に立派なことには驚かされた。
ターラント山林学校は、今でもドレスデン工科大学林学科の建物として使用されている石造り四階建ての壮麗な建物である。学校ではすぐシュミットが会ってくれ、志賀が住んでいたのと同じ、学校の隣にあるタールシュロスヘン(博士は谷城屋(たにしろや)と呼んでいた)という下宿屋に案内してくれた。
一階がレストランで二階六室を下宿として貸し出している。金持ちの学生三人と学校の助教授(いずれもドクトル)二人がいて、実はシュミット博士もここに住んでいる。五〇歳前後の女主人が部屋の掃除などの世話をしていた。
事前に部屋を空けてくれていたのだろう。静六はシュミット博士の隣室に入居することになった。部屋は十五畳ほどで極めて清潔。部屋の窓から庭を隔てて学校の講堂が見えた。
天気は快晴。留学生活の第一歩を記した日としては申し分ない。シュミット博士はその後も親切にいろいろと案内してくれ、一緒に食事もとった。
遠い国から来た静六を不安にしないための心配りが痛いほど伝わってきた。

翌九日の午前十一時、シュミット博士に連れられて学校に行くと入学手続きを行い、教授連に挨拶するとともに、校長のフリートリヒ・ユーダイヒにも面会することができた。高名なユーダイヒ校長と固く握手を交わすことができ感激もひとしおだ。
自然の生命と科学技術の両者を重視する造林法の提唱者として知られるユーダイヒはターラント林学の大成者であり、ザクセン王国の枢密顧問官にも列していた。静六は〝世界森林学の王〟と尊敬を込めて記している。
ユーダイヒ流林学は静六たちを通じて日本に広まり、戦後日本の造林政策の指導理念にもなっている。
山林学校には七〇人ほどの学生がおり、静六のことを歓迎してくれた。皆気取らず服装なども頓着していないのには好感を持てた。静六以外にもロシアなど何人かの留学生も混じっていた。

驚いたことに、翌日からライプチヒへの修学旅行が予定されており、校長はじめ教授も同行すると言うことで、行きがかり上、静六もこれに参加することとなった。
当日はいつもより一時間早い午前五時に起き、下宿屋の女主人の作ってくれたサンドイッチを新聞紙に包むと駅に向かった。校長たちと待ち合わせをしている間、駅に設置されていた有料体重計で体重を量っている。衣服を着たままで五六キロ。こちらで体重が増えるであろうことが少々心配であった。
なんと言ってもビールの本場だけに、ドイツ人はやたらとビールを飲む。修学旅行でも食事時にはビール樽が持ち込まれ、皆パンを片手によく飲んだ。
旅行先のフライベルクに有名な鉱山学校があった。そこに数名の日本人留学生が来ていることを知っていたユーダイヒ校長は、親切なことに彼らと会って食事する機会を設けてくれた。久々に日本語で楽しい時間を持つことができたのはありがたかった。

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